第3回 「新情報システム学体系調査研究委員会」 開催報告
日時 2010年2月27日 13時30分〜17時
場所 専修大学神田キャンパス7号館782教室
テーマ 「ソフトウェア工学における哲学・言語の役割」
−MASPの概念データモデリングをケーススタディとしてー
講師 同志社大学大学院総合政策科学研究科/工学研究科・情報工学専攻
金田 重郎教授
参加者 10名
内容
第3回委員会では、ソフトウェア工学手法が海外で開発された輸入品が多くソフトウェア教育においても表面的に輸入品を「習うより慣れろ」的指導が行われて来ている現状に対して疑問を呈した講演であった。ソフトウェア構築の上で、超上流工程である要求分析(モデリング)は、民族の世界観・言語が反映されてしかるべきであるとの視点から検討した発表で新情報システム学体系検討に当たり大変参考となる講演であった。
1.従来のソフトウェア教育では、モデリング手法としてオブジェクト開発手法であるUML、ユースケース等を教えて来たが、お仕着せの形であった。数年前から、第2回委員会で講演のあった手島氏から、概念データモデリング(CDM:Conceptual Data Modeling)を教授してもらいPBL(プロジェクト・ベース・ラーニング)教育を実践して来ている。CDMは、実業界で実際に活用された実績があると聞いていた。
2.PBLでCDMを実践した経験からCDMは良いものと実感したが、何故うまく行くのかが納得できなかった。そこで本日の切り口である哲学・言語の関係を検討した。
3.概念データモデリングは、静的モデル、動的モデル、組織間連携モデルからなるが、特に組織間連携モデルは、情報構造が明らかになり有用であるとの印象を持った。
静的モデルは、オブジェクト指向分析で対象世界をモデル化するのを目的とするが、プロトタイプ理論のカテゴリー概念を適用し典型事例(例:商品)とそれとの類似性(例:在庫品・納入品)で整理していく方法である。動的モデルは、静的モデルのエンティティの粒度を決める「価値観=役割」を表現するもので、価値観は、所与の「事業範囲と使命」の中で決められたものであり、事業範囲が変更となれば粒度も変更されることになる。組織間連携もモデルは、DFDと似ているが本質的でない一覧表作成、検索、集計等を除外し「情報の流れ」のみを現実の組織に対応させ眺める様に工夫したものである。
4.しかし「モデリング」は、対象世界を認識することであるとしても、その背後にその民族の認識に対する世界観がそのまま引き継がれると考えると、CDMは日本発であるが、その基盤にユニシス等の方法論があるが、コンピュータ発祥地の米国の認識哲学が根本に存在してはいないかの疑問が生じる。
5.オブジェクト指向は何かを再吟味すると、現実世界に存在する「もの」をそのままソフトウェアに写し取る?、メッセージパッシングとは、犬に対して「鳴け」と指示する様なこと、又、とにかく「エンティティ」を書けという様な意味不明な部分がある。そこで学生への説明時に、「小さなバー」を例としてオブジェクト指向表現を図示するが、この図(客・ウェイター・飲み物・請求書がオブジェクト)にはメニューは出てこない。メニューは、ビューだからメニュー上の「料理」、「値段」は属性でない。なぜか。オブジェクト指向の目的は、オブジェクトの再利用性、モジュラリティの確保であり、オブジェクトの利用のされ方に無関係に「オブジェクト」が生まれると共にそれに付随して必然的に生まれ、そのオブジェクトが消えると共に、それも必然的に消える「属性」のみを付加するべきと考えるからである。
6.CDMの重要な構成要素は、中村善太郎氏の主張する要(カナメ)の「もの」・「こと」による方法論をベースにしていることにある。さらに属性値の変化しないオブジェクトは永続でなく、オブジェクトから除外する、つまりでデータ状態が変化するものに限定する。業務の表面的な流れでは無く(1)本当にその情報が存在する場所から(2)本当にその情報が必要とされる所への「要の流れ」がメッセージパッシングとして描かれることになる。又、組織間連携モデルを用いて、要(カナメ)の情報伝送に実際の流れを肉付けすることで、「あるべき情報の流れ」を提示できることになる。と言うことでCDMはうまく行く方法であるが、(1)対象世界をオブジェクトとして認識すれば上手く「写し取れる」のか?(2)なぜ、業務担当者までもモデリングに参加しないといけないのか?(3)なぜ、3モデル間を行き来しないと、「正しいモデル」に到達しないのか?(3)なぜ、動的モデルから、静的モデルのエンティティ粒度を決定するべきなのか?の疑問が残る。そこでプラグマティズム哲学との関係を検討したい。
7.米国プラグマティズム哲学の中で、C.S.パースとW.V.O.クワインに注目したい。CDMの方法論として、動的モデルにより静的モデルの粒度制御、ステークホルダー参加による繰り返し分析、オブジェクトを属性変化に限定する等の特徴がある。これらの特徴は、パースの新カテゴリー論(カテゴリーは、実体、存在、質、関係・表象から成ると言う整理の仕方)、可謬主義(どこまで行っても実在物に到達しない。しかし議論参加者の意見が一致した段階でこれを「信念」とするしかない。信念は常に誤りを含む。異議があれば探求を再開すると云う科学の方法。)、プラグマティック(格率、つまり概念の意味は、常に「実際的な関わりのある結果」に結び付けて理解される)、更にデュエム・クワインテーゼ(モデリング中に生ずる、不都合が発生したからと言って、追加・修正したエンティティが誤りとは言えないとの主張等)、クワインの翻訳不可能性(CDMにおける、あるエンティティがそれまで出来ている他のエンティティと整合しないからと言ってその段階で、新しく追加しようとしているエンティティが誤っているとは言えないとの見解)から説明可能と考えられる。
8.オブジェクト指向は米国に生まれている。オブジェクト指向の方法論提案者は、プラグマティズムを意識するかしないかの程度はあるが、プラグマティズムをベースに理論を開発したと推測される。日本の学生は、西洋とは全く別個の世界観アニミズムしか持っていないが、米国流のオブジェクト指向をそのまま教えても良いのであろうか。
9.日本文化は多神教(アニミズム)の文化であり、日本語は膠着語である。ソフトウェア工学を生んだ欧米文化と大きく異なっているが、ソフト開発方法論においてこの点が無視されて良いのであろうか。
10.日本は、4000年前に滅んだ長江文明を引き継ぐ稲作漁労文明といわれている。(安田嘉憲著:稲作漁労文明―長江文明から弥生文化へ、2009年3月に基づく)欧米は、中国は、麦作狩猟文明といわれている。日本の農村に見られる様に、森を育て、家畜をやめて労働集約して農地の生産性を上げ(長時間のつらい労働)、自然を「征服すべきもの」でなく、「ともに」暮らすものとしサステナビリティを実現してきた。
11.一方、欧米の農村は、森を破壊し放牧し、人間は管理だけで開墾面積を増加し羊を増加さることが生産性向上であり、自然は征服すべき対象であった。又、宗教的にも一神教で、トップダウンの文化であった。西洋哲学は、イデア・知と言った超自然的原理を参照して自然を眺めるスタイルである。日本は、一神教は余り人気なく日本の哲学は、観察者は世界と不可分で悟り(「なる」ようにしかならぬ)に特徴がある。日本の文化に、簡単なものを馬鹿にする態度が見受けられるが、稲作漁労文明では、「作り込みの仕上げの高さ」を重視する傾向があり、電気自動車を軽視する傾向がある。ソフトウェアについても同様で、例えば、画面の美しさをいくら磨いてもソフトウェアの価値は増加しないことになる。では、どうするか。
12.日本語は、「情緒的」と言われ、「日本人は論理的思考能力が弱い」と言われるが、膠着語である日本語の特性を議論に含めた要求分析手法の議論は少ないように思われる。その議論の糸口として言語過程説(時枝誠記録・三浦つとむの主張)と仕様記述を議論する。
13.言語過程説とは、文章とは、それぞれの言語規範としての意味と、文章自体の意味(内容)の2重の「意味」を持っているとする考え方である。三浦氏の意味論では、文章を各単語に分割した段階で意味が消えてしまうとする、非還元論的アプローチである。又、日本語の文章における「視点」が極めて自由に動くとする特徴もあげている。百人一首にも、その日本語独特の視点移動が表現されている。(吉本隆明氏も指摘)
一方、西洋のベートーベンの合唱を例に取ると、視点の不動である。中国人が蕪村の俳句を読んだ場合、解釈が日本人と大いに異なり論理的であることが判明している。日本語は、過去、文字を持たなかったので中国の様に文字と表現概念が対応していないが、日本語の曖昧性により稲作漁労文明が古来から保存されてきたとも考えられる。言語過程説によれば、ひとつひとつの単語の意味を加算しても、「意味」を表現できないので、日本語でユースケースを書いて、そこから名詞と動詞を取り出す還元論的手法に本質的限界があると考えるが、いかがであろうか。
14.とは言うものの、ヒアリングのみで要求を引き出すのはでなく、モデリングを同時に作成することで要求を確実に行うために、CDMの存在意義があると考える。アニミズム文明 日本として、ソフト開発を将来どの様に行うのが望ましいのか。仮説1としては、西洋の認識論に対する知識がモデリング参加者(施主・SE)に必要でないか。仮説2としては、膠着語に適した、新たな要求分析方法を開発すべきである。仮説3として、どうやってソフトウェアを本質的なもののみにして行くかを意識すべきである。仮定4として、「納得の行く良いソフトウェア作り」とは何かを我々は考えなければならない。サービスで儲かる仕組みへの徹底的にこだわることが重要でないか。
15.世阿弥の口伝に、「秘すれば花」の言葉があり、その実践は今後のソフトウェア開発方法論に貴重なヒントがあると考える。
(最後に)
大変、幅の広い講演であり、参加会員との間で活発な討議が実施された。
(伊藤重隆)