情報システム学会 メールマガジン 2010.1.25 No.04-11 [11]

連載 情報システムの本質に迫る
第32回 情報システム学会の使命

芳賀 正憲

 プロフェッショナルの倫理的な責務について、慶應義塾大学の樽井正義教授は、accountabilityとwhistle blowingを挙げられています(1月16日「情報システムのあり方と人間活動」研究会)。ここでaccountabilityとは、専門的な内容を専門外の人にも理解できるように分かりやすく説明することであり、whistle blowingとは、一般市民に危害が及ぶことのないよう、専門分野に関わる問題の所在を広く社会に知らせることです。プロフェッショナル有志の結集した学会の場合、当該分野のクリティカルな課題を学会内で厳密に分析し検証するとともに、その成果を、プロフェッショナルも含めて社会全体に提示していくことが責務であると考えられます。

 人の生命に関わるだけに、医学関係の学会からは、活発に提言が行なわれています。例えば日本小児科学会では、医療行為や薬剤についてはもちろん、小児科医の確保に関してや「運動遊びで,子どものからだと心を育てよう」という呼びかけまで、実に多くの提言が学会の内外に対して行なわれています(同学会Webサイト参照)。新型インフルエンザの発生に際して、日本感染症学会から、わが国における患者発見直後の昨年5月(第1版)と9月(第2版)に緊急提言がなされたのは記憶に新しいところです。
 もちろんこのような提言は、絶対的に真というより、学会(あるいは学会内タスク・フォース)で真摯に検討した結果を、1つの見解として示すものであり、多くの質問や意見が寄せられますが、それらを通じて議論を深化させていくことに、かけがえのない価値があると考えられます。

 今日、情報社会と呼ばれているとおり、情報システムの発展による社会の便益はきわめて大きくなっています。それと同時に、情報システムに不備があった場合の被害も極大化してきました。2005年に起きた東証への誤発注事件では、わずか2項目のデータ入力ミスのため、10分間に400億円を超える損害が発生しました。年金記録管理システムの構築と運用には、税金や保険料など国民のお金が1兆2000億円投入されましたが、2006年段階で5000万件の不明データを発生させており、それによる国民の逸失年金総額は兆のオーダーになると推測されています。

 このように重要な存在となった情報システムですが、実は「情報システムとは何か」ということが、一般市民はもちろん、専門家の間でさえ明確になっていないところに最大の問題があります。インターネットで検索できるIT用語辞典には「現代ではほとんどの場合、情報システムは「コンピュータシステム」と同義として用いられる」と記されていて、これは客観的な事実を表わしていると思われますが、概念と物理的手段が混同して理解されているのが実態です。このような混同が専門家の中にさえあることが、大学の一般情報教育や高校の教科「情報」において、情報や情報システムに関して真に概念的基礎から学ぶことができないという弊害をもたらしています。

 「情報システムとは何か」を明らかにするのは、情報システム学の役割です。情報システム学会のWebサイトには、研究対象とする専門分野がコード表にして示されています。大分類として、情報システムの基本概念、外部環境、組織的環境、技術的環境、ネットワーク環境、情報システム管理、情報システムの開発と運用、情報システムの利用、情報システムの教育、参照領域の10分野があります。それぞれに中分類がありますが、参照領域の場合、中分類として行動科学、コンピュータ科学、決定理論、情報論、経営学、言語学、記号論、システム論、社会学、経済学、認知科学・心理学、コミュニケーション、人間工学、IE,図書館情報学、情報社会学、その他が挙げられています。

 ここで参照(学問)領域というのは、Peter G. W. Keen氏が最初に提示した概念で、「そこから研究のモデルやアイディアを得る、すでに確立された学問分野であって、その分野をしっかりと学ぶことにより情報システムの研究の質を高めることができるようなものを指して」います(「情報システム学へのいざない」培風館)。しかし、メルマガの昨年1月5日号でも述べたことですが、情報システム学にとって参照領域は、決して「参照」という言葉から連想されるような弱い結びつきのものではなく、経営学、言語学、記号論、システム論、社会学、経済学等々、そこから得られた成果は、情報システムの基本概念を構成する重要な要素になっているのではないでしょうか。
 さらに、哲学は参照領域の中分類項目として挙げられてはいませんが、同志社大学・金田重郎教授から「オブジェクト指向と概念データモデリングの背後にはパースを祖とするプラグマティズム哲学がある」との仮説の提示があり、また自然・人文・社会すべての科学の源流に哲学があることを考えると、情報システム学の基盤として哲学を位置づけるのは必須のことのように思われます。

 「説明」の厳密な意味は、「事物が「何故かくあるか」の根拠を示すもの」とされています(広辞苑)。哲学も含めたいわゆる参照領域との関係を明確に説明し、「情報システムとは何か」「どのように発展させていけばよいのか」を世の中に提示するのは、情報システム学会の最も重要な使命です。情報関係の学会や諸団体はわが国におびただしい数存在しますが、上記のような観点で課題に取り組んでいるところは残念ながらありません。また、哲学も含めたいわゆる参照領域に関連した学界(会)からも、情報の問題についてはアプローチが少ないのが、わが国の遺憾な実態です。

 情報システム学会では昨年、新情報システム学体系調査研究委員会を発足させました。杉野委員長と伊藤副委員長の主宰のもと、学会の叡智を集め、哲学、数学、言語学、人類学、社会学、経営学等々、関係領域の識者と積極的に交流を深めながら、新たな体系をつくって公表、さらにその成果をもとに大学の一般情報教育と高校の教科「情報」の改善を図っていくことは、発足5周年を迎える当学会にとって根幹の事業になると思われます。

 金田教授からは、哲学的認識論など一般教養の有無によって、モデリング手法などを学ぶ場合、「理解の早さと深さ」に差が出る可能性があるという重要な指摘がありました(昨年12月の全国大会)。このことは、広く情報システム学全体を学ぶ場合にも、あてはまるのではないかと考えられます。もちろん、どのような専門領域においても一般教養教育は基本的に大事ですが、情報システム学の場合、哲学、論理学、言語技術を始めとする一般教養教育の知見が、体系の理解に直結しているように思われます。
 残念なことに、90年代初頭の大学審議会答申による高等教育カリキュラムの基準撤廃により、多くの大学において一般教養教育は縮小されてきました。東京大学のように、90年代から2000年代にかけて、教養教育体制の改革を行ない、基礎科目、総合科目、主題科目実に2513科目の設定、人文社会科学系における方法論の構造化、教養教育開発機構の設置、フロネーシスの涵養をめざす情報教育の実施、知の構造化、理科系対象の英語によるクリティカル・リーディングとライティング授業など、充実に努めてきた事例は少ないと思われます(1月8日、学士会館における小島副学長のお話などによる)。
 情報システム学会としては、あらためて情報社会における一般教養教育の重要性を社会に訴えるとともに、メルマガの昨年11月号で述べたことと共通しますが、情報教育を柱とする新しい教養教育の体系を提示していくことが課題と思われます。

 「情報システムとは何か」を明確にするとともに、実際に社会で起きた情報システムに関わる大きな問題について構造を解明し、その本質を社会に説明していくことも、情報システム学会の重要な使命です。情報システムに関わる問題は、一般市民はもちろん、ジャーナリストにとっても構造が見えにくく、また専門家といわれる人たちが必ずしも適切とは言えないコメントをすることがしばしばあるからです。

 例えば年金記録管理システムの問題、これは先述したように、構築と運用に国民のお金が1兆2000億円使われ、結果として国民の逸失年金総額が兆のオーダーになると推測されている、ほんとうに大問題です。
 この問題に関しては、政府内に委員会が結成され検証がなされましたが、結論とされる「報告書」の中では、システム化の推進についても社会保険庁のガバナンスに問題があるとされ、開発業者については、不備データの処理について記録を残していないことが問われているのみでした。本来、説明責任の一翼を担うべき政治家やジャーナリストも見方は表面的で、社会保険庁の体質のみの追及にとどまり、情報システムの専門家の役割に言及したものはほとんどありませんでした。年金記録管理システムの構築と運用に1兆円を超える、本四架橋並みの予算が使われているという事実さえ認識していないジャーナリストもいました。
 驚いたことに、わが国には情報システムやプロジェクト管理に関わる学会や団体がきわめて多数存在しているにもかかわらず、これだけの大問題を対象として取り上げ、分析して提言するところが1つとしてないのです。樽井教授も述べられたように、プロフェッショナルにはaccountabilityとwhistle blowingの責務があるのですから、社会全体として見たとき、これは関係学会や団体の体質を表わす、きわめて異常な状態と言わざるを得ません。

 情報システム学会ではもちろんこの問題について、顕在化直後に検討プロジェクトをつくり、分析結果を大会や研究会で討議、また有志によって結果をメルマガで公表し、業界団体等でも説明会を開催して議論を積み重ねてきました。情報システムに関わる社会的に大きな問題については、今後もこのような活動を発展させることが学会の使命であると思われます。

 それに関連して、一般的に官公庁のシステムには、過大な予算を使ったにもかかわらず所期の効果を発揮していないものがかなりあると見なされています。官公庁・業者ともに国民のためにQCDを最適化しようという意識に乏しく、また随意契約が多いことも要因と考えられます。
 対策として、昨年民主党政権によって行なわれた事業仕分けが参考になります。メルマガの1月1日号に「森のかめさん」が書かれていますが、一定規模以上のシステム開発を対象に、公開の場でシステム仕分けを実施するのです。具体的には、SI企業でプロジェクトのリスク管理を経営者が行なうのと同等の形式で、経営者の役割をベテランの仕分け人が担うことにします。国民の前でコミットしてもらうところにポイントがあります。官公庁情報システムのレベルアップのため、このようなフレームの提言も有意義と思われます。

 東証への誤発注事件では、誤発注をしたみずほ証券が、東証の提供しているシステムにバグがあり取り消しができなかったとして、そのために発生した損害403億円の賠償を請求する訴訟を起こしました。
 判決は昨年12月4日に出されましたが、事件が起きた時点が瑕疵担保期間を過ぎていたため、システム開発業者は訴訟の当事者から除外されていました。一方、東証もバグの発見は容易ではなかったとして取り消しができなかったことに関しては免責され、誤発注からそれに関わる取引終了までの9分22秒のうち、異常な取引株数から売買の停止が可能と見なされた最後の2分18秒の間に生じた損害150億円のみが認定され、さらに誤発注というみずほ証券側の過失として3割が減額されて、東証に対して107億円の賠償命令が出されました(弁護士費用2億円を加算)。

 この判決で問題なのは、バグのために生じた損害のうち、大半の253億円について、どこも責任をとることになっていない点です。一般的に、どのように大きな損害が生じても、システム(他の商品・サービスであっても)の開発者と提供者がともに簡単に免責されるなら、その取引は利用者にとって著しく不利なものになります。
この判決に対してはみずほ証券が控訴、当初受け入れるとしていた東証も対抗上控訴しました。高裁の審理結果が注目されます。

 バグの存在ではなく運用判断上の責任を問うた東京地裁の判決結果を受け、日経コンピュータの12月23日号がClose Up欄で特集を組んでいます。見出しは、「みずほ‐東証、400億円裁判の教訓 「運用軽視」は致命傷」となっています。
記事の中で、JISA会長の浜口友一氏は「システムやサービスの運用を軽視すると大変な損失につながる。だれもがこの事実を肝に銘じる必要がある」と強調されています。また、元SEC所長だった鶴保征城氏は、「ある程度の確率でバグは存在するものであり、不具合が起こるのもある程度はやむを得ない」「異常時こそ人間が臨機応変に対処しなければならない。システムの自動化や処理の高速化が進むほど、人間の判断が重要になる」と話されています。

 東証への誤発注事件では、当初東証が開発業者のバグを指摘したのに対し、情報関係のある学会が「人間は神ではない。それゆえ,過ちを犯す存在である」「したがって,システム障害は自然災害と同じように,発生することを前提に対処法を考えておくべきである」という見解を出しました。上記の両氏の主張は、この学会の見解とも一致していて、システムの運用に携わる組織が自己防衛のためにも肝に銘じておく必要があります。しかしこの見解は、産業界が人工物によるトラブル対策として確立してきた原則とは考え方を異にしています。
 トラブル対策は第1に、人工物そのものがトラブルを起こさないよう設計・製作に配慮すべきであって、第2がトラブルを起こさないための機能の付加、第3が人間への注意の喚起です。
 一般に、異常が起きるのはレアなケースです。人間は神ではなく、過ちを犯す存在なのですから、レアなケースで臨機応変に正しく判断して対応することがいかにむずかしいか、実際に運用を経験するとすぐに分かります。だからこそ、予め時間をかけ、ウォークスルー、レビュー、テストを入念に計画・実施することができる設計・製作に万全を期すべきことを原則にしているのです。

 産業界で常識となる妥当な考え方を確立し徹底することも、情報システム学会の大事な使命のように思われます。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。