「情報システム人材の育成」は情報システム学会における主要活動テーマの一つである.政府のIT戦略本部は平成21年7月にi-Japan戦略2015を発表したが,同戦略においても,高度デジタル人財の育成が主要テーマとして挙げられている.
i-Japan戦略2015:
概要:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/kettei/090706gaiyou.pdf
本文:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/it2/kettei/090706honbun.pdf
情報システム人材を系統的に育成するためには,高等学校をはじめとする初中等教育から大学・大学院での教育を経て,社会人としての継続教育やCPD(継続研鑽,Continuing Professional Development)に及ぶ教育・人材育成に関する包括的な枠組みが必要だと筆者は考えている.
本稿では,最近の取り組み事例や動きも踏まえながら,筆者の意見を述べる.
以下で述べる5つの問題は互いに関連して悪循環を形成しており,一つを解決しただけでは悪循環を断つことはできない.そのため,さまざまな立場の関係者が互いに協力しながら包括的に問題解決を図る必要がある.
i-Japan戦略2015が発表された後,平成21年8月には政権交代が起こった.その影響で取り組みが停止しているものもあるが,民主党政権も教育・人材育成等のソフト事業には意欲的であることから,再開に向けた政府への働き掛けが重要と考えている。
(1) 高等学校を中心とする初中等教育
数年前に高校教科「情報」の未履修問題がマスコミを賑わした.この問題の根本的な原因は現在も解決されていない.「情報」を担当する教員が各高校に一人程度しか配置されておらず,しかも,他の教科とも掛け持ち担当しているケースが多い.また,担当教員の多くは教科「情報」に関する十分なトレーニングを受けていない.
これに対して,生徒の方はケータイ,PC,ゲーム機,音楽プレイヤー等で日常的にITを活用しており,ITスキルの面では教員と生徒の間に大きな差はない.そのため,教員側のIT知識のレベルアップを図ることが重要な課題になっている.
教科「情報」に対しては,大学入試でほとんど課されないため無用論が根強くあり,平成25年の改定では何とか必履修で残ったものの,このままでは平成35年で廃止される可能性が高いと言われている.こういった問題に対しては,情報システム学会としての社会活動の重要性が高いと言えよう.
今年,筆者の娘は高校生になった.キャリア教育の一環として,情報システムに関する各種の職種を調査することになったため,筆者は手持ち資料をいくつか提供した.その際に,高校生に分かる用語で書かれている資料がほとんど無いことに気付いた.
例えば,経済産業省が出している「共通キャリア・スキルフレームワーク」や「共通フレーム2007」にはカタカナの専門用語が頻出しており,一般の高校生では理解できない.IT関係のマスコミの記事についても,残念ながら同様の状況である.例えば,「ソリューション」という用語が意味する内容を理解できる高校生はどれだけいるだろうか?
共通キャリア・スキルフレームワーク
http://www.meti.go.jp/press/20081021004/20081021004.html
共通フレーム2007
情報専門学科を志望する高校生の数は減少傾向にあるとの意見がある.いわゆる3K問題がその原因とされることも多いが,筆者の感覚では,情報系の職業や具体的な仕事の内容が,高校生や保護者,高校の教員に知られていないことの方がより大きな原因だと思える.
(2) 大学における情報専門教育の質
ここ数年,文部科学省は「高等教育の質的保証」を旗印に各種の施策を打ち出している.例えば,認証評価の義務化や設置基準の頻繁な改訂などである.その根底には,他の先進国の大学と比較して日本の大学卒業生の学力が劣っている,との問題意識がある.
中央教育審議会,学士課程教育の構築に向けて(答申)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1217067.htm
「いや.そうではない.日本の大学生は結構勉強している」とのご意見もあるだろう.そのような方には,以下の文書を読んで頂きたい.
Seoul協定, Section D - Graduate Attributes
http://www.abeek.or.kr/ams/File/abeek/Seoul%20Accord/Seoul%20Accord%20Documents%2020%20Feb%2009.pdf
Seoul協定は,情報系分野(Computer Science, Information System, Information
Technology)におけるアクレディテーションの国際的同等性を保証するための国際協定であり,日本からはJABEEが加盟している.Seoul協定では,同分野の学部卒業生に期待される能力をGraduate Attribute(日本的な表現では「学士力」)としてまとめている.
Graduate Attributeによると,自明な解を持たず,広い範囲に及ぶか技術的なトレードオフを必要とし,ITに関する高い能力を必要とするような複雑な問題に対して,各種の専門知識,問題分析,設計・評価,最新ツールの活用,チームワーク,コミュニケーション能力,プロフェッショナリズム,倫理,継続学習といった知識・能力が求められている.
これだけの内容をきちんと教育している情報専門学科はどれだけあるだろうか?
現在,日本学術会議は,分野別の質的保証に向けて専門別の「学士力」に関する議論を進めている.平成21年11月にこの取り組みに関する中間報告シンポジウムが開催されたので筆者も参加した.その内容は,上記のGraduate Attributeを踏まえて考えると低レベルと言わざるを得ないものだったが,この中間報告を踏まえて,文部科学省や中央教育審議会等がどのように動くかを筆者としては注目している.
(3) 教育を担当する教員に対する評価
筆者は情報系の大学を訪問する機会が多いが,どの大学にも,非常に教育熱心な先生がおられる.しかし,残念なことに,そうした教育熱心な先生が,学内で評価されることはほとんどない.大学における教員の採用や昇格等は,基本的に研究業績に基づいて決定されるためである.
人間は必ずしも利害だけで行動するわけではないが,マクロ的に見れば,インセンティブは人を動かす重要な要因になる.そのため,多くの大学では,教育よりも研究に重点を置く教員が多数派を占めており,教育熱心な教員は学内で孤立する.
こうした状況を改善する上で,筆者が注目している取り組みが2つある.一つは教員の個人評価であり,もう一つは教育や人材育成における実践を対象とした論文誌である.
国立大学の法人化以降,各大学では教員の個人評価が普及している.国立大学の使命は,教育,研究,社会貢献(国際貢献や地域貢献を含む),大学運営の4領域に及ぶため,教員の個人評価もこれらの領域に対して行われている.問題は,その結果が教員の人事制度と直接にはリンクしていないことにある.しかし,大学に義務付けられている認証評価の際に,教員の個人評価と人事制度の矛盾が指摘され,大学側が人事制度の改革を求められる事例が出始めている.これを通じて状況が改善されることを期待している.
従来の学会論文誌では,学術的な内容は評価されても,教育や人材育成に関する実践的な取り組みはあまり評価されてこなかった.これに対して,最近は実践論文を積極的に採録しようとする学会が増加しつつある.情報システム学会もこれに該当する.情報処理学会は実務系の内容を掲載する新たな論文誌として「デジタルプラクティス」の創刊準備を進めている.
ただし,現状では,こうした実践系の論文に対する査読基準が明確になっておらず,査読者や編集委員に任されているのが残念である.論文投稿者と査読側のギャップが大きく,論文採択率が非常に低いケースも見られる.関係者には、石を拾うことを恐れて,ダイヤの原石を捨てることがないような査読システムの構築を期待したい.
(4) 大学教育と社会人教育の連携
情報システムに関する学問と,実務における情報システム開発の間には乖離がある.
学問は,できるだけ汎用性を高める観点から,抽象化・モデル化を行うのが普通である.これに対して,実務では,モデルや理論をベースとしながらも,現実世界における様々な運用や例外を考慮してモデルを具体化しながら,情報システムの企画・構築・運営等を行う.
そのため,大学で情報専門教育を受けただけでは,実務の世界で即戦力になることはできない.しかし,モデルを知らずに実務を行うと,特に上流工程において根本的なミスが発生するリスクを高めることになる.
以上のことから,大学における情報専門教育と実務における人材育成の間の連携が重要になる.
例えば,JABEE認定を受けたプログラムの修了生に対しては,技術士の一次試験が免除される.技術士会では,技術士一次試験合格者を修習技術者と呼び,彼らを支援するために,修習技術者支援実行委員会も設置されている.この仕組みを活用してJABEE認定プログラムの修了生に実務的なトレーニングを受けさせたいものである.
JABEE(日本技術者教育認定機構),http://www.jabee.org/
日本技術士会,http://www.engineer.or.jp/
日本経団連が提言し,文部科学省が予算を付けて始まった「先導的ITスペシャリスト育成推進プログラム」も平成21年度末で終わりを迎える.同事業に対しては,費用対効果が低いといった批判も聞かれるが,こうした産学連携教育を継続的に推進するための措置は必要だと考えている.
(社)日本経済団体連合会,高度情報通信人材育成の取り組みについて
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2009/113.html
日本ではまだ数が少ないが,IT専門職大学院はこうした産学連携教育を継続的に行っている教育機関として,筆者は期待している.
以上の議論は,大学卒業者を想定して行ったが,企業の現役技術者で,ITに関する専門教育を受けていない人材を大学に送り込んで,モデル化教育を行うことも重要である.将来的には,大学と企業の間で人材(技術者はもとより教員も)の交流が活発に行われるような社会を構築することが,人材育成の上でも,実務上の問題を大学に伝えて研究活動を促進する上でも重要だと考えている.
(5) 高度な情報システム人材に対する評価の可視化
IPA(情報処理推進機構)の推計によると,日本では約100万人の情報技術者が働いているそうである.そのうち約90%がエントリーないしはミドルクラスの人材であり,ITスキル標準(ITSS)等のレベル4以上に該当する高度な人材は10%程度に過ぎない.これは,中国やインドとは比較にならないほど少ない.しかも,高度な人材に対するインセンティブには残念ながら大きな差がある.
情報関係の高度人材の不足問題に対処するためには,高度な情報システム人材をしかるべく処遇する必要がある.これを推進するために,高度IT資格に関する資格制度を構築して高度な情報システム人材を可視化することが重要である.IT関係の国家資格としては情報処理技術者試験があるが,ITSS,ETSS,UISSのレベル1〜3といったエントリレベルしかカバーしていない.しかし,世界的にはそれ以上のレベルのITプロフェッショナル資格制度の相互認証制度(例:IFIP IP3)が立ち上がりつつある.
International Professional Practice Partnership (IP3),http://www.ipthree.org/
こういった状況を考慮して,ITSS等のレベル4以上を認定するための資格制度を構築して,高度な情報システム人材を認定すべきと考えている.前述したi-Japan戦略2015にも「高度デジタル人財の認定・認証」という形で提言が盛り込まれた.
上述した資格制度は,情報システム人材がキャリアプランを考える際にも有用な目標になる.情報システムユーザー(企業,国,教育機関等)にとっては,そうした高度な資格を持つ人材の配置状況は,取引先のITベンダーを評価する上での有用な指針になる.これを通じてITベンダーには人材育成の推進を求め,その結果として,情報サービス産業における人月型のビジネスモデルや多重下請け構造からの脱却および国際競争力の強化を期待したいものである.
情報システムは社会を支える重要なインフラであり,こうした情報システムを構築するためには高度な技術力を持った人材が不可欠である.これを政府や地方自治体のレベルでも推進する観点から,情報システム調達の中で,高度IT資格を持った人材の提供をITベンダーに求めるべきである.もちろん,そのための前提として,そうした人材を提供したベンダーには,それに見合うインセンティブを与える必要がある.さらに,国のこうした取り組みを,民間の情報システムユーザーにも普及させる必要がある.
上述したような資格制度の導入に対しては,「規制緩和の流れに反する」といった意見があるかもしれない.しかし,規制緩和は単純に事業者の自由を認めるだけのものではなく,業務の品質をチェック・担保するための仕組みと組み合わせるべきであり,人材の質を保証するための仕組みとしての高度IT資格制度の導入は合理的な方策である.