情報システム学会 メールマガジン 2009.7.25 No.04-04 [7]

会員コラム
「高等学校における情報教育の現状」

兵庫県立社高等学校 山上 通惠(やまがみ みちよし)

 先日、恩師の浦昭二先生のお誘いをいただき、情報システム学会「第2回 シンポジウム」に参加させていただいた。佐伯先生の基調講演、小林・江島両氏の講演に続く、岩崎理事をモデレータとした皆さんのパネルディスカッション、懇親会まで、遠く兵庫県から足を運んだ甲斐のある有意義な時間であった。

 その会において、なんと高等学校の教師としての参加は私ひとりであり、高等学校における現状のごく一部をお話しさせていただく機会を得たが、2週間前に九州工業大学を会場に開かれた日本情報科教育学会に参加したときとは異なる雰囲気、これは日本情報科教育学会が高等学校の教師がたくさん参加するものであるということに起因するのは自明であるが、その違いが新鮮でもあり、また情報教育を取り巻く環境の複雑さを表しているようでもあり、非常に興味深かった。

 以前から、メルマガを舞台に高校における情報教育の現状を、というご提案をいただいており、今回から複数回にわたって、私の思うところを述べさせていただけるそうである。単なる現状への不平・不満、他者の批判といった見苦しい文章にならないよう、偏らない視点で展開したいと思ったが、実のところ、胸の内は不平・不満、愚痴だらけである。当メルマガの品位を貶めるとご判断された場合は、遠慮なく掲載を見送っていただきたい。

 1回目の不平・不満は生徒に対峙する現場の教師に向ける。「情報」担当教員は、平成15年度からの新教育課程の実施に先立ち、3年間で数学科、理科、家庭科、工業科、商業科の免許を持つ現職教諭を対象にした免許講習会で9000人が養成された。この施策についての感想は別の機会に譲る。夏休みを利用したたった3週間の講習で生徒の前に立ち、そのまま自分が受けたこともない授業をしなければならないのであるが、免許を取得した後も、教育委員会や教科書会社、各種学会や研究会が行う研修会に参加するなどして、授業をよりよくするための研鑽を積む機会はいくらでもある。わたしも、いくつかの研修会に参加するが、そこで感じるのは、参加者の顔ぶれがほとんど変わらないという点である。

 部活動の指導もある土日に、出張にもならない研修会に自費で参加することは正直しんどい。教育委員会主催のものは平日に開催され出張になるが、その日の授業が自習になる。「あちらを立てればこちらが立たず」は世の常であるが、それでも新しい教科を担当し、その教科が将来の日本を支える生徒を生み出す役割を担っているという自覚があれば、もう少し何とか前向きになれないものか。休日にしろ、自費にしろ、あるいは授業の自習が発生するにしろ、参加者の顔ぶれは変わらないのはどうしてか。研修会に参加している教師の顔を見ていつも「来なくていい人たちの集まりだな。来なければいけない人が来ていないな」と思う。こうして現場の教師の間に乖離が生まれていく。

「将来の日本を支える生徒を生み出す役割を担っている」と思っていない、この教科にそのような可能性を感じていない情報科の教師がいる。そしてそれは少なくない。自分が独力で身に付けたワープロの操作指導を1年の授業の大半をかけてやることに懐疑的であるからである。それでも何らかの成果を確認したいから、「ワープロ検定」などの合格をとりあえずの目標に頑張らせる。教材も揃ってるし…。

 説明するまでもないが、ワープロの指導など情報科の守備範囲ではない。科目でいえば「情報処理」、教科でいえば「商業」の役割である。私はよく、「いくら英語が重視されるといっても、数学の時間に数学の教師が英語検定の準備をしていたらおかしいでしょう。未履修と指摘されても不思議じゃない。」といって、情報科の授業に「ワープロ検定」の準備をする誤りを説くが、わかってくれる人は少ない。

 ではなぜ、教師がワープロの指導にこだわるのか。それは、現在の情報科の教師の年齢層が、コンピュータを操作するようになった経緯を見ればわかりやすい。

 乱暴にまとめると、1980年代いわゆるパソコンが学校に数台購入され、教師はプリント作成をワープロで行うようになった。続いて成績処理を表計算ソフトで行うようになる。一人の教師の成績処理は表計算ソフトの表面的な操作で可能であるが、それを取りまとめる立場、例えば教務部などではデータベースで処理する必要性があった。さらにパソコン通信にはまって、他校と情報交換するなどする教師がごく一部に生まれた。一般の教師からすれば、「私はそこまでマニアックではありませんよ」ということになる。

 現在はどうか。保護者にパソコンを買ってもらった生徒は、まずネットである。掲示板、電子メール。入口は通信である。続いて家庭に最も普及しているソフトは年賀状ソフト、いわゆる住所管理データベースである。表計算やワープロのニーズがない。指導者のたどってきたコンピュータとのかかわりは、今や完全に否定されているにもかかわらず、指導者は自分と同じ道をたどることを強要する。そうでないと安心できないのだろう。

「ワープロができないと、メールも掲示板も住所録もできないでしょう」
言いたいのは「日本語入力」であろう。ワープロではない。わけのわからない稟議書の見本を真似して入力して、おもしろいか? 達成感があるか?
日本語入力のスキルを身につけるなら、休み時間にチャットでもやらせておけばいい。速さも身に着けるだろう。

 では、なぜ教師がそのように勘違いをしてしまったのか。これは世間の風潮である。「情報」⇒「コンピュータ」⇒「ワープロ」⇒「資格取得」。なんと単純な言い換えであることか。「新しくできた教科「情報」の教師をしています」「へぇー、ワープロ教えてるんですか」というやり取りは日常である。また、ある進学校で、情報科の教育実習に来ていた学生に生徒が「先生、楽な教科を選んだね」といわれて落ち込んでいたとも聞く。

 高等学校の未履修問題では「地歴科」「情報科」が多かった。次期学習指導要領が昨年12月に発表された際にも、その改訂に先立って、いくつかの団体から「情報科を必履修から外せ」という意見が寄せられた。選択教科にして、不必要だと判断した学校は実施しなくてもよいことにせよという主張である。管理職の団体や保護者の団体など、大学受験に関係のない教科の排除ということが述べられるのはいつものことで、予想通りのことであったが、一部の教師グループからそのような意見表明がされたのには驚いた。情報科の指導から逃げ出したい、元々の教科の指導に専念したい教師の集まりだそうである。職務命令で免許を取得したものの、やっていけないということであろうか。そんな教師に教えられる生徒がかわいそうである。

「あなたは計算機工学を体系的に身につけて自信があるから、そんなに高いところから物が言えるんだ。自分たちにはそんな素養もないし、あなたには私たちの苦労は分からない。」

 残念だけれども私には分からない。まず、私自身、自分の授業に自信はない。不安で仕方がない。だから可能な限り研修会に参加して、すぐれた実践に触れようと努めてきたつもりである。また、研究会や学会で私の実践を発表して、それに対する意見を聞く機会を求めている。研修会などに講師として呼ばれることもあるが、質疑や意見交換受講生から何か得られると思って出向き、散会後に名刺交換して以後の情報交換を約束し、ネットワークを広げてきたし、もっともっと広げたい。
 生徒に向かって「もっと勉強しろ。「デキのいいヤツ」に追い付こう、追い越そうと思うなら、そいつよりももっと勉強しろ」と言っている限り、私自身もそうありたいと思うだけである。

 上記のような現状の問題を、多少なりとも情報システム学会の皆さまにお知らせいたしたい気持ちと、ご忌憚のないご意見を伺いたいとういうお願いのもと、寄稿させていただきました。