鉄道総合技術研究所(鉄道総研)は1987年4月の日本国有鉄道(国鉄)の民営分割化に伴い、その研究開発を承継する法人として活動を始めました。早いもので20年以上が過ぎ、国鉄を知らない世代も既に成人しています。ときどき研究ではない仕事をすることもありましたが、1980年に国鉄に就職して以来、概ね研究所に所属してきました。大学ではどちらかと言えばハードウェアよりの研究をしていたのですが、社会人になってからは鉄道という応用分野の情報システムの研究開発をすることとなりました。国鉄の頃には、特に鉄道という分野に限定しないでソフトウェア工学や要求工学に分類されるであろう一般的な研究もテーマとして取り上げられていましたが、世の中一般の情報技術が進展するに従い、そのような研究はよりふさわしい組織が行うべきということで、公式のテーマになることはなくなりました。情報通信技術やソフトウェア関連の学会にも色々と加入して、若いころには、情報処理学会を中心に種々の委員会、研究会、大会、編集委員会などに参加する機会も多かったのですが、今は会員であるだけという状態のものが多くなっています。情報システム学会には発足時点から加入させていただきました。以前に浦先生を中心に活動されていたHIS研究会に上司の紹介で参加させていただき、各分野の方とお話をする機会が得られたのは私にとって貴重な経験であったからです。情報システム学会の発足は関係の皆様の一つの目標が実現したものであり、そのご努力に心より敬意を表するものです。
ここでは、鉄道での情報システムという非常にせまい分野での経験ではありますが、研究と実用システムということで若干書かせていただきます。ピントはずれのことを書いておりましてもご容赦いただければと思います。
私は実用に供される情報システムそのものを建設したり、運営したりしているわけではなく、研究開発という立場から情報システムに関わってきたわけですが、応用システムであるからには、こういう知見が得られましたというだけではなく、自分が多少なりとも関与して得られた成果は是非実際のシステムとして使っていただきたいと常に考えています。しかしながら、それはそんなに簡単なことではありません。まず研究して得られた成果がそもそも使えるレベルに達しているかという問題があります。正直なお話をしますと、論文にはなり得てもコストや実現できる機能のレベルを考えると実用にはどうかなというものも結構あります。それはそれで一つの貢献ですし、参考となる情報として活用していただいたりしているわけですが、別の観点からは力不足のためにある地点で道が途切れてしまったことにもなります。
成果が非常によいもので、実用化までの道筋が見える、実用に供されたときの新しい世界も見えてきているとなったときでも、すぐ実社会に向けて旅立てるわけではありません。その成果を受けて実世界に向けて導いてくれる人が必要となります。研究所にいる人間は直接にシステムを作り運営する立場にはないわけですから、自分がその旅の道連れにはなれず、その成果を使っていただけそうな立場にいる方々に理解していただくことがまず必要になります。論文なり報告書なりは必ず存在していますが、ユーザに理解してもらうという目的に合致しているかというとそうとは言えないことが多いですから、色々な機会を見つけてPR活動をします。分かりやすく説明するということは承知しているつもりなのですが、研究者同士で話しているときの意識が出て、相手の知らない言葉や概念を多用していたりして、プレゼンテーションがうまい方を見ると大変うらやましくなります。過去の研究事例の中に、のちにSuicaなどの乗車券システムに発展したICカードのシステムがありますが、このときには身近にいる事務補助の方に話を聞いてもらったり、マンガを含むパンフレットをつくったり、自分たちで撮影してプロモーションビデオを作ったりもしました。
研究テーマは基本的にはニーズを検討し、ユーザの話も聞いて設定しているわけですが、だからといってよい成果ならすぐに受け入れて活動を開始していただけるか、というとそんなことはないのです。「それは面白いシステムですね」、「そういうことができるといいですね」というような段階と、「それは是非作りたいですね(私が)」という段階の間にはそうとうの距離があります。また個人の意思表明ではなく、組織の意思表明にならなければなりませんから、多数の関門を通っていかなければなりません。話をして、話をして、徐々に仲間を増やしていく活動と言えるでしょう。当然そのときに誰がキーパーソンであるかということも重要になります。そしてキーパーソンがその気になると、ようやく実現に向けた本格的な活動になります。そしてこのときに主体となっているのは自分ではなく(これはPRがうまくいって仲間が増えているという幸せなことでもあるのですが)、その活動を支援するという立場なのでもどかしい思いをすることもあります。その支援というのはいわゆる技術移転なのかと言いますと、このくらいの時期になると研究段階での蓄積はもうとっくに使い果たしていて、様々に出現する質問や課題にその場その場で対応することが中心となり、新たに教えられたり勉強させてもらったりということの方が多い、というのが実感です。
ICカードシステムの研究開発のPRには、「これができると便利になって利用者が増えることが期待されます」、「種々の新しいサービスもできます」、というようなことをどちらかと言えば主張していたのですが、その背景には自分たちが現状の業務やシステムの細かいところまでは知らなくて、やや抽象的な話になりがちであったということもあります。当然そのような利点の根拠については説得力のある数値として示すことは難しく、事業者において最終的なゴーサインが出た大きな要因の一つは、「投資の段階では従来のシステムよりも高いかもしれないが、年数がある程度たてば現状のシステムよりもコストが低くなる」という、収入増ではなく経費削減の確実な計算ができたからだったのは非常に印象深いことでした。このような計算を実行したのはもちろん事業者の中で実用化を目指して活動をされた方々で、種は研究所にあったかもしれませんが、それを現実のものとした、実際のシステムとして具体化した、という業績はまったくその方々のものです。実はこのときには、事業者側の方々に加えて、研究所で一緒に研究をしていた私の上司が事業者に転籍してその後の開発の中心人物の一人になったということもあり、私もときどき「そのくらいのことをしなければ事業者はその気になってはくれないよ」というような言葉を色々な人から言われることもありましたが、結局はそこまでの機会はなく今にいたっております。
研究の成果が発展していった場合もそうでない場合も、色々と経験をしてきましたが、たからといって、私自身に研究成果を実用にするためのよい作戦などということものが獲得できたわけではなく、結局はよい成果をあげて、そして分かりやすく紹介をして理解していただくということにつきるということしか言えません。繰り返しになりますが、その「分かりやすく」というのがまた難しいところです。相手は研究者ではないのですから、先方の仕事のなかでどう使えるのか、仕事がどう変わってどういうよいことがあるのか、という形で提示したいとは思うのですが、やはり深いところまで業務を理解していない場合も多いということから的外れなことを主張している場合も多々あります。しかし、多少的外れでも色々話をしていると、先方が間違いを正してくれますので、信用を失うほどとんちんかんではなく真剣に考えているということが分かれば、先方も真剣に対応していただけたと思います。
ICカードシステムの場合はハードウェアを中心としたシステムの置き換えの側面が大きく、事業者の中で人間が行う仕事とある意味で分離されているところも多いため、比較的分かりやすいものであったとも思っています。最近の研究開発の中心は、いままで人間がやってきた計画作成や判断の業務を情報システムで支援すること、それも作図することや見やすい出力を得ること、ネットワークで伝達することなどのツール的な機能ではなく、判断に関わる部分の仕事を情報システム側に分担させていこう、という考え方のものが多くなっていますので、人間主体で行っている業務を、いかにスムーズに情報システムを用いて実行する仕組みに置き換えるかが一つの課題となっています。単にユーザインタフェースのよしあしや計算機能のよしあしだけではなく、昔からある言葉ですが、マン・マシン・システムとして有機的に活動し、人間の側にも機械の側にも、また結果としての業務やサービスというアウトプットについても、無理やトラブルが発生することなく今までよりもよい品質のものにしなければなりません。このようなシステムを実用のものとするためには、やはり対象となる業務を現時点で行っている方々に、「この研究成果は信用できる。自分が発展させたい」と思っていただかなければなりません。
ということで、ここでもよい成果をまずあげること、そしてあまり高望みやほら話にならないように、現実的にできるのはどこまでかを明確にし、それが役に立つということが確信していただけるレベルにするということが重要なのですが、そのためには、実際の業務の中で活用されている知識をうまく引き出してシステムの中に表現できるか、結果を客観的で信頼できる基準で評価できるか、ということが問題になります。このあたりはまだまだ満足できるレベルになってはいないというのが個人的な実感です。人間の知恵は広い意味でのソフトウェアですが、規則として抽出された結果だけみても背景にある考え方が分からない、ルールは知っていてもなぜそのルールがあるのかが判っていない、などのことがあると、少し状況が変わるとおかしな結果しか出てこない場合もあります。このあたりはベテランから若手への技能の伝承などにも関係するところで、それを情報システムで支援できないかという課題もあります。色々難しいことばかりですが、逆に見ればまだまだ研究のテーマは尽きることはないとも言え、幸いな状況なのかもしれません。
以上、ただ思いつきを書いたようなもので恐縮ですが、このあたりで筆を擱かせていただきます。