野球がベースボールの翻訳語であることは,子供たちも含めほとんどの日本人が知っています。しかし,理念,理想,本質,直観,経験,感性なども野球と同様に翻訳語であることは,それほど知られていません。実はわが国では,日常使っている言葉の中に翻訳語が非常に多いのです。ごく一部を挙げただけでも,次のようなものがあります。
文化 情報 科学 工学 技術 論理 思考 価値
主観 客観 現象 具体 抽象 概念 定義 常識
説明 哲学 物理学 化学 心理学 ・・・
わが国では,「概念」という概念も輸入された概念(言葉)なのです。ビジネスや研究・教育で使われている主要な言葉は,ほとんど翻訳語であるといっても過言ではありません。
この連載の最初に,日本が基盤ソフトのほぼ100%を輸入に頼っていることが問題であることを述べました。しかしコンピュータのソフト以前に,日常のいわゆる自然言語がすでに,輸入された言葉に多くを依存しているのです。
どうしてこのようなことになったのでしょうか。前月号で,西欧と日本では概念化のレベルに差があることを述べました。発端は,紀元前にさかのぼります。その後2000年以上にわたり,両者の差は拡大し続けました。明治維新でわが国は,哲学・科学・産業・立法・司法など人間活動のさまざまな分野における西欧の優位にがく然とし,これにキャッチアップするため,西欧で形成された大量の概念を翻訳語として導入することにしたのでした。
概念(言葉)を大量に輸入したからといって,わが国の概念化能力が向上したわけではありません。それは,欧米のソフトを大量に輸入したからとい
って,わが国のソフト開発力が増していないのと同じことです。
文化には,大きな慣性があります。京大学長など要職を歴任されている長尾真氏は,「一般的には,欧米の学者は,名前を与えることによってある概念を他の概念から明確に区別するということに関心が高く,こうした名称の体系によって学問を体系的につくり上げていくことが上手である」と述べています(岩波新書「「わかる」とは何か」)。わが国では学者でさえ,概念化に関心が低く,学問を体系的につくり上げていく能力に乏しいことが示唆されています。オントロジー(概念体系)が情報システムの基盤と目されるようになった今日,憂慮すべき事態です。
西欧で「概念」という言葉のルーツは,「手でつかむ」ことです。赤ちゃんが何でもつかんで口に入れ,それによってまわりの世界を把握していく。手でつかむことが頭でつかむことになる,それが概念の始まりです(青土社「ベレーニケに贈る小さな哲学」)。
自らはつかまないで,西欧でつかんだ大量の概念を輸入したわが国では,それらの意味を正しく把握していない可能性があります。福沢諭吉や西周など,翻訳語を作った人たちは正確に理解していたかもしれません。しかしその後は伝言ゲームにより,意味が変質して定着した恐れがあります。
例として「理想」が挙げられます。明治40年に制定された早稲田大学校歌「都の西北」(相馬御風作詞)には「現世を忘れぬ久遠の理想」とあり,このときはたしかに理想と現実が同時に考えられています。しかし今日理想は現実の反対語と見なされ,特に生産性を重んじる企業社会では,現実を離れた理想について論じるのは無駄なこととされ,「それは理想論だ!」「理想論を言うな!」など,理想を否定し排除するような発言が現場でよく聞かれます。
ところが西欧の設計や問題解決の主な技法を調べると,理想について議論するプロセスが必ず設けられているので驚きます。米国でナドラーの提唱したワークデザインでは,システムの目標を定めた後,それを実現する理想システムを考え,理想システムに近づけるよう現実システムを設計していきます。旧ソ連で開発された創造的問題解決技法TRIZでは,アルゴリズムの中に理想解を定義するステップが設けられています。
デマルコの提唱した構造化分析は,情報システムの要求分析技法として長らく主流の位置を占めていました。この技法の特徴は,現行の物理モデルから現行の論理モデルを作成,それをもとに新論理モデルを開発するところにあります。ところがデマルコは,肝心の論理モデルに関して,定義や評価基準を明確にしていなかったのです。これに対してはすぐにマクメナミンとパルマーが,論理モデルはシステムの本質モデルであるとして,その基本形式と開発手順を提案し,デマルコもこの提案を絶賛しました。ここで本質モデルとは,名称こそ異なりますが,ワークデザインの理想システムと同等のものです。本質モデルは非常に大事な考え方ですが,わが国では学界・産業界ともに注目する人が少なかったのは残念なことです。
日本と西欧で理想の取り扱いがどうしてこのように異なるのか,手元の2つの辞書を見て得心がいきました。小型の新明解国語辞典には「実際には実現できないとしても・・・」と,実現できないことが前提であるかのように書かれています。一方広辞苑では,理想がidealの翻訳語であることを明記した上で,「・・・実現可能なものとして行為の目的であり,その意味で行為の起動力である」と記されています。広辞苑の意味だと,設計や問題解決技法の中に理想論が組み込まれている理由が分かります。
人間活動の中に理想をどのように位置づけるかということは,学問や技術の発展はもちろん,広く社会や文化のあり方にも影響を及ぼす重要なことと考えられたので,情報システム学会の設立総会に哲学者の今道友信先生が来られたとき,「ベストセラーの小型辞書でこのように理想が解説されているのは問題ではないか」という旨をお話しました。このとき今道先生が「広辞苑の理想の項目は,私が執筆しました」と言われたのでびっくりしました。今道先生は,ギリシャ時代から現代まで西欧で理想がどのように考えられてきたか精査した上で広辞苑に書かれているにちがいありません。理想に関して
は,広辞苑の解説が正しいことを確信しました。
あと一つ,翻訳語が正しく理解されていない重要な例として「説明」が挙げられます。広辞苑では「説明」について次の2項目の解説がなされています。
(1)事柄の内容や意味を,よく分るようにときあかすこと
(2)(explanation)記述が事実の確認にとどまるのに対して,事物が「何故かくあるか」の根拠を示すもの。科学的研究では,事物を因果法則によって把握すること
いくつかの小型辞書を調べると,いずれも(1)に相当する意味のみ書かれていて(2)項がありません。(2)項が翻訳語としての意味で,ビジネスや研究・教育などでは,この意味で「説明」がなされるべきですが,一般には(1)(2)の区別がほとんど認識されていないのが実態です。
上智大学教授をされていた高根正昭氏が米国に留学中,雇い主でもあるB助教授の論文に意見を求められました。高根氏が最大級の賛辞のつもりで「あれは大変によい記述的論文だと思う」と言ったところ,B氏の顔から見る見る血の気が引いていったそうです(講談社現代新書「創造の方法学」)。日本で記述と説明のちがいを,顔色を変えるほど意識している人は少ないと思われます。
情報システムにおける言語技術の重要性については前月号で述べたとおりですが,わが国の場合,翻訳語の語義に関して今後特段の配慮が必要です。
この連載では,情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。