情報システム学会 メールマガジン 2007.7.25 No.02-04 [4]

連載 情報システムの本質に迫る
第2回 「IT学者は現場音痴」 か?

芳賀 正憲

 前月号で、わが国では有識者とされている人々の間でも情報や情報システムの概念がはっきりせず、それどころか少なくとも3つの誤解があることを述べました。概念とは「事物の本質をとらえる思考の形式」(広辞苑)です。また、有識者の中には学者が多く含まれているのですから、状況はかなり深刻です。
 実際、わが国で情報システム産業の厳しさが増すにともない、情報システム関係の学者に対する批判が高まっています。例えば、経団連の部会長・山下徹氏編著の「高度IT人材育成への提言」には、「大学の教員は、細分化された専門分野においての高度な理論や知識を教えることには非常に長けています。しかしながら、実践IT教育には、そういった理論や知識を応用する能力が重要であり、・・・大学内部での人材を確保することが難しい状況にあります。原因のひとつは、・・・論文数や学術的な研究成果によって教員の評価がなされるため、そもそも教育に労力を注ぐインセンティブが少ないことです」と書かれています。
 また、北海道大学でトップガン技術者育成講座を推進した嘉数・大場両教授は、近刊の「ソフトウェアエンジニアリング講座」の「はじめに」で、もっと端的に、IT関連分野では日本の大学は「国内論文重視主義で現場音痴症候群」に陥っていると厳しい評価をしています。

 いずれの批判も、現場での応用に役立つ教育が行なわれていないことを指摘しています。しかし前月号で見たように、基本的な概念が不明確なまま研究と教育が進められていることを考えると、情報システムに関して日本の大学は、現場音痴というよりむしろ学問音痴といったほうが適切ではないかと思われます。学問の成立条件が、概念・歴史・理論・方策(実践の方法論)の確立にあることは、つとに知られているからです。
 この点に関しては、現場での応用能力ばかり重視する産業界の視点にも問題があります。ほんとうは産業界も、概念・歴史・理論をしっかり習得した上で方策を進めなければ、効果的な業務の推進はできないのです。ところがギリシャ以来の学問の伝統をもたず、明治になって急いで西欧に追いつこうとしたわが国の産業界は、概念や歴史、基本的な理論まで振り返る余裕がなく、実学の名のもとに、そのときどきの表面的な方策のみ求めてきた経緯があります。前述の嘉数・大場両教授はこのような産業界に対しても、「輸入依存型の近視眼的国内現場主義」と厳しく批判しています。
 問題は、開国以来140年経った今日、学問の府である大学まで、同じような思考パターンを続けているところにあります。経団連の高度IT人材育成部会の提案に対して「大学の教育現場からの意見で、もっとも多かったのは、・・・「大学ではどういった知識・スキルを教えればよいのか」を、具体的に示して欲しいといったもの」でした(前掲書)。近視眼的な現場に質問したのでは、近視眼的な答えしか返ってこない可能性が大ですが、自分も近視眼であるため、そのことが分からなかったのでしょう。

 それでは、真に人間社会のために役立つ情報システム学を、私たちはどのように組み立てていったらよいのでしょうか。これに対しては、21世紀を迎えた時点で、日本学術会議がエネルギー学を創出していこうとしたアプローチが参考になります。
 学術会議がエネルギー学の創出を企図したのは、周知のように途上国の経済成長や人口の増加で今後エネルギーの危機が予測され、それに温暖化の問題も重なってきている、しかし従来、エネルギーは自然科学、工学、社会科学など多様な領域で別々に取り扱われてきていて、例えば物理学でエネルギー保存則は基本であるが経済学では保存則が成り立つわけがないなど矛盾がある、そこで多分野の叡智を結集して、人間にとって総合的にエネルギー問題の解決が可能な一つの学を創出しようとしたのです。
 2000年3月には各界の権威者を集め、「エネルギー学を考える」講演会が開かれました(「学術会議叢書4」参照)。
 この会では、当時学術会議会長だった吉川弘之氏が、諸科学を統合的・俯瞰的に見ることを提唱したのに対して、哲学者の今道友信氏がそれを卓見として認めながらも「基本の基底と目的とを結ぶ軸で考える」べきことを主張されました。ちなみにエネルギー学の英語名はEnergeticaと決定されたのですが、これは今道氏が、エネルギー学が実は17世紀すでに存在していたとして紹介された文献名にもとづきます。同時に今道氏は、エネルギーの語源が、ギリシャ哲学の現実態にあることに言及されました。
 ゲノム研究で著名な物理学者の和田昭允氏は、エネルギー学をPan Academic Study(汎学術分野)と位置づけた上で、ボーア・湯川秀樹がもっていた基礎研究へのインセンティブ、エジソン・豊田佐吉がもっていた応用研究へのインセンティブに対して、パスツールや鈴木梅太郎は両方にインセンティブをもっていたとして、エネルギー学など汎学術分野では、それらのいずれの方向にもインセンティブが必要であるとされました。
 また社会学者の吉田民人氏は、人類が構築してきた人工物システム全体(換言するとライフスタイル)にフィードバックがかかるループとしてエネルギー学を考えるよう述べられました。
 同年学術会議の委員会が出した「エネルギー学の確立を目指して」という報告書に次の一節があります。「エネルギー学においては、長期的で幅広い視点から問題を設定して解析することが特徴であり、そのためには各学問分野に対して横断的に適用できる
基礎概念の構築が重要である。このためには、・・・学問に関する学問である哲学が重要な基盤となる。
 ここで重要な参考となるのは、プログラム科学と名づけられた新しい科学観である。人間にとっての価値を中心概念としてエネルギーの諸問題を取り扱うエネルギー学においては、現象を理解する認識科学と共に、あるべき価値観を創造するという設計科学の視点を重視する必要がある。人工物の秩序原理は法則ではなくプログラムであるとするプログラム科学の考え方は、人工物システム科学としてのエネルギー学の基盤になり得るものと考えられる。」
 前半に関しては今道氏、後半には吉田民人氏の以前からの主張が反映されています。
 私たちも、情報システム学をPan Academic Studyとして構築していかなければならないことは明らかです。そのためにはエネルギー学と同様、すぐれた哲学者や社会学者の知見にも学びながら、基底から目的に至るループを組み立てていく必要があります。そしてそれこそが、学会として産業界のニーズに真の意味で応える道筋になると思われます。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。