情報システム学会 メールマガジン 2007.7.25 No.02-04 [1]

理事が語る
「昔昔にこんなことがありました」 (その1)

理事 松平和也

 業界では、私は生ける化石シーラカンスと言われるようになった。
そこで、私が聞いたり見たりしたことをメモしてみたので気楽にお読みください。

1.計算機の一号機と美人のプログラマ伯爵夫人

 与謝野鉄幹作人を恋うる歌の一番は妻を娶らば才長けて、みめ麗しく情けあるである。昭和二十年代生まれの方々はご存知であろう。この歌の四番に嗚呼、われダンテの鬼才無く、バイロン、ハイネの熱なきもと続く。放浪の詩人バイロンの娘が計算機に関わりがあるのである。世界最初の計算機として英国で開発されたデイフャレンスエンジンがそれである。バッベージ博士が1835年ごろ開発に成功した。バッベージ博士への資金提供者がAugustaAda Byron伯爵婦人なのである。ちなみにバッベージ博士が作った二号機はアナリテイカル・エンジンと言う名である。
 鉄幹の理想の女性?ADAさんは美人薄命で、三児を遺して37歳で世を去る。この伯爵婦人のADAというミドル名を取り、後年米国政府はMIL‐STD‐1815:ADAという言語を1980年に制定した。この言語は米軍関係の複雑極まるシステムのポータビリテイを保証するための米軍各部共通開発言語として標準化の道具となったのである。実は私はこの標準化を推進していた空軍のジェリイウインクラー中佐にADAさんのことを教わったのである。

 ところでADA伯爵夫人は世界最初のプログラマと言われている。この辺のいきさつを下記しよう。
 聡明な伯爵婦人は1842年にバッベージ博士の講演の講義録を英語に翻訳するようバベージ博士本人に依頼されるのである。この講義録を作成したのはイタリアの若きエンジニアLuigi Menabrea(後の伊首相)で、仏語で書かれていた。ほぼ一年かけてADAは仏国語講義録を英語にしたのである。
 このときの講義録の最終章にベルヌイ数の計算のアルゴリズムをアナリテイカル・エンジン向けに表現したのである。この記述があたかもプログラムを組んだように表現されているという。ここではいくつかの命令はLOOPとかSubRoutinesにおいて繰り返し処理されると言う概念が見られると言う。さらに今流に言うGIGOGabbage-In, Gabbage-Outというような記述もみられる。入力が大事だと言う概念。まさに計算機の機能を的確に表しているのである。
 せっかくのプログラムはその時代にはデバッグできず、100年後になって完全なプログラムであることが証明されたというのである。かくして、ADAさんは世界初のプログラマと言われるようになったのである。ADAさんの母親は数学者という。父親が詩人、父親譲りの詩的な言葉の表現方法を駆使して、まだ見ぬ計算機の機能を推論してプログラムした論理構成力を兼ね備えた才女はガンで死ぬ。

2.HERMAN HOLLERITH(1857−1929)とパンチカードと電子計算機の話

 1890年:ホレリスはパンチカードと統計機械を考案した。
 私も若いころ一時的に使ったことがある80欄のカードをホレリスカードと言っていたのを懐かしく思い出す。ホレリスは1896年にはThe Tabulating Machine社を設立して社長になった。
 その後会社は1911年にComputing Tabulating Recording社として統合された。1914年にIBM社が創立され1915年にはトーマスワトソンシニアが社長になった。この時期IBM社は肉きり機も造っていた。1933年にはタイプライター事業にも進出した。第二次世界大戦中は銃なども製作した。海軍のためにはHarvard Mark 1という自動デイジタル計算機を開発した。

 1950年代に入ると空軍のためにSAGE防空システムを開発した。これで技術力を蓄積しAmerican Airline社向けにSABREシステムを開発成功しビジネスへの電子計算機の活用効果の側面を示した。1964年にはIBM/S360を発表し以降急速に世界の巨人企業になった。しかし、盛者必衰の理のとおり、BIG BLUEといわれた巨人が1990年代に入ると急速にその力を失う。再建屋ガースナーに踊らされ今や巨象のサービス会社に変革している。

 以下に電子計算機のショ−トヒストリーを示そう。
 1939年にABC機が米国アイオワ大学にて開発された。かなり本格的な電子計算機であったという。この後、1943年になって真空管電子計算機:COLOSSUSの開発が成功する。Alan Turingのチームが開発したのである。真空管2500本以上を使う機械である。この計算機はドイツ軍の将校とヒットラーとの通信を解読するのに役にたった。この傍受は1944年のノルマンデイ上陸作戦の成功を生んだ。
 1946年2月『ENIAC』をJ. Presper Eckert及びJohn Mauchlyが開発成功。ペンシルバニア大学にて公開された。
 1950年『EDVAC』をフォン・ノイマンが開発した。このモデルが、電子計算機の基本構造となる。
 1951年『UNIVAC1』が米国政府機関人口統計局に納入。民間一号機はデュポン社に納入された。この機械もエッカート・モークリー社で開発された。後年スペリランド社が両人の会社を買収した。私の師匠ミルト・ブライス氏は自身導入に関わったのがデュポン社に納入された機械であったのである。
 1956年は日本でのエポックであり、『FUJIC』という日本最初の電子計算機が稼動した。富士フィルム製真空管電子計算機である。富士フィルム社はレンズ設計用にこれを開発した。この計算機の能力は人間の計算速度の2千倍であったという。

3.Leslie Matthies(レス・マサヤという)とCOBOLのProcedure Divisionの関係

 レスはカリフォルニア大学バークレイ校ジャーナリズム専攻で卒業、不況で良い職が無くブロードウエイにて台本書きをしていた。やがて太平洋戦争が始まり、飛行機会社の生産性向上のために飛行機組み立て現場の改善を担当した。このとき彼の本職演劇用台本書きの経験が組み立て作業現場で生きた。レスの書き方での台本で劇をする役者は動作が実にうまく動けるというのである。この台本書き技術が、工場の作業改善技術として『作業準備』『作業と指示』『名詞と動詞』『IF文の書き方』などなどになったのである。この技術が『今で言うIE』なのであり、レスの書く現場作業マニュアルの導入により航空機組み立て作業の生産性改善が進み太平洋の戦場に大量の飛行機を送り込めたと言う。

 戦後マニュアルの表記法としても台本方式が世界中に使われるようになった。私はマサヤ氏とはブライス氏の会社MBA社で何度も会ったことがある。PLAYSCRIPT WRITINGという氏の著書を署名入りで贈呈された。その書は今は(株)プライドの書庫にある。マサヤ氏は何時も言った。『和也、事務管理というのは標準化が大事だよ。企業の情報を扱うのでね!』英文では『Systems & Procedure Department』と表記するのが日本での事務管理部。また現場の改善は生産技術部『Industrial Engineering Department』が担当する。
 この時、MILTが言い添えたものである。『世界で最初のオンラインリアルタイム会話型データベース活用型システムは12世紀にベニスの商人により開発された複式簿記である』と。ここで歴史の証人達が言いたかったことは電子計算機が出現以前からSystemなんて言葉があるのだということ。システムノットイコール電子計算機ということなのである。常に人間の所作に着目せよと先人は言う。

4.Robet W. Beamer(ASCIIの父、UNIVACのリーダー)

 ブライス氏はユニバック勤務時代にMr. Beamerから標準化を仕込まれたとよく言っていたが、二回ほど氏の家のサロンパーテイで会ったことがある。ボブさんはシステム分野の技術者として優れた業績を残した方で、サロンへの出席者の誰にも尊敬されていた。ボブさんはSTANDARDという言葉を耳にたこができるぐらいいい続けた方だ。サロンの常連のトム・リッチリーはDBMSとして著名なTOTALの開発者。トムとの出会いこそブライス氏の起業独立のきっかけであったという。ブライス氏は、1971年ごろはUS製靴社のCIOだったが情報関連の事業に興味をもち起業の意思を持ちはじめていた。そしてChampion製紙社向けにトムが開発したTOTALをブライス氏がUS製靴で2号ユーザーとして購入した。TOTALを使う中で意気投合したブライス氏とトムとでTEKFAX社を創業しコンサルをやろうとした。創業して数週間後、たまたま営業に立ち寄ったB. F. GOODRICH社では自社のために開発したIDMSの販売権を渡してもよいとの話もあり、この世界で生きようとブライス氏は決意した。結局IDMSの販売権はJ.カリネーン氏に再譲渡され、カリネーンは大成功し政治家にもなった。

5.PRIDE方法論、世に出る

 ブライス氏はデータの論理的管理方法をPRIDEにて実現した。物理管理はDBMSに譲ったのである。DBMSが丁度世に出たころでCharlie BachmanはGE社でIDSを開発した。ブライス氏は頃合いを見て、データベースアプローチを基本にしたPRIDE方法論の販売を決意したのである。1971年にこれを販売開始したが事業は容易ではなかった。営業に行くと客にどんなソフトウエアなんだ?と聞かれる。ブライス氏は、いつも以下の様に答えたという。『最高のコンピュータ:すなわち人間にとって大事なソフトウエアは‐マインドだ。このマインドを揺り動かす方法論を売ってるんだ』 このコンセプトを最初に買ったのがMARION POWER SHOVEL社。世界最大のパワーシャベルを設計製作している会社。その後TENNECO, GE, GMなどがユーザーとして続いた。今でも方法論一筋である。PRIDEブライス氏はソフトウエアの技術者であるMichaelA Jackson(構造化設計提唱者:英国人)とは仲良しであった。構造化を理解できる技術人がこのころ交流があった。
 Barry Boehm,Frederick P. Brooks,Larry Constantine,Tom Demarco,Edsger Dijkstra,Chris Gane,J. Warnier,Gerald M. Weinberg,Ed Yourdonなどなど。懐かしい名前ばかりだ。皆さんも良くご存知でしょう!

 注1)善知識とは仏教用語で良い友人。ミトラともいう。
 注2)Atanosoff Berry Computer
 注3)Electronic Numerical Integrator And Computer
 注4)Electronic Discrete Variable Automatic Computer
 注5)UNIVersal Automatic Computer
 注6)PRofitable Information by DEsign

(次号につづく)