16世紀の日本にやってきた宣教師が帰欧後著した書物に「日本の知的風土には,論理性と抽象性が欠落している」と書かれているそうである。
今道友信先生によると,明治7年西周が最初に論理学を紹介したとき,名称は「致知学」となっていて,原稿には次のように記されていた。「さて,ロジックてふは,此ノ日本にも漢にも昔よりさる学ビのなきものから,人いとあさましく思ふへけれど,・・・・・」当時人々が論理学に対して,「意外なものがある」と驚いていた様子が伺われる。
130年以上経った今日も,論理については,状況があまり変化していないように思われる。国会でも大新聞でも,論理的におかしい議論が盛んに行なわれている。コンピュータメーカで数100名の社員に最も初歩的な論理思考のテストをしたところ,結果はここには書けないほど低い成績だった。論理性に欠けた知的風土は,わが国で国際的なレベルのソフトウェア開発ができない大きな要因になっていると考えられる。
論理とは,言葉と言葉の関係である。したがって,本質的に国語の問題である。しかし,このことを自覚している国語の先生は少ない。そのためわが国では,何年学校に通っても,論理思考が身につくとは限らない。 それに対し,論理について説明した良書は実はたくさんある。その中でも出色のものが,昨秋発行された,野矢茂樹著「入門!論理学」(中公新書)である。
この本の面白さは,「はじめに」のところによく表れている。メルマガ読者の方々には,まず書店で「はじめに」のところだけでも目を通して頂きたい。この本の特長がよく分かるだろう。一部引用すると次のような記述がある。「タテ書きにしたことで,そして(記号論理学であるにもかかわらず)記号を使うことを禁じたことで,私たちがふだん使っていることばと論理学との関係にいっそう敏感になることができました。論理というのは,私たちがふだんことばを使うときの重要な技術のひとつです。(中略)その論理の仕組みを解明したい,それが論理学にほかなりません。私は,この本で,私たちのふだんづかいのことばから,その論理を取り出し,理論化し,体系化する,その最初の産声を取り上げようと思いました。ここには,まだプニプニしていて,ホカホカしている,そんな産まれたばかりの論理学の姿があります。」
「私が考えるもうひとつの(入門書の)タイプは,少し唐突な言い方ですが,「哲学」です。つまり,その学問の根本的なところ,その本質を,つかみとり,提示する。論理学ってけっきょく何なんだ。何をやっているんだ。禅坊主の言い方を借りれば,襟首つかんで「いかなるかこれ論理学」とか「作麼生(そもさん)!」とか迫るところです。入門だからこそ,その根っこをつかまなければいけない。表面的なあれこれを拭い去って,根本を取り出そうとするその態度は,まさしく哲学です。」
このような方針のもとに本書では,「ではない(否定語)」「そして」「または」「ならば」「すべて」「存在する」などの基本的な言葉を通じて,述語論理の成り立ちが厳密に説明される。そしてこれらの言葉が作り出す演繹的推論の全体が見通され,その公理系の完全性や健全性,さらには「ゲーデルの不完全性定理」まで遠望される。しかも,通常はむずかしい論理が,話し言葉でユーモアを交えて述べられるので,読者はたびたび笑いながらページを繰っていくことができる,驚くべき論理学の本である。著者の野矢茂樹氏は,わが国哲学研究の第一人者とのことだが,抽象的な概念のこのように平明な解説は,読者が仕事の中でプレゼンをするときの参考にもなるだろう。
この本を読むと,論理学とはまさに言葉と言葉の関係のモデル化,つまり文法,すなわち国語の問題であることがよく分かる。情報関係の研究や仕事に携わる方々には,是非読んで頂きたい一冊である。