生圏情報システム研究会(第2回)記録

 

 日時:2005年12月23日(金)14時〜17時30分

 出席:橋本典子 上野南海雄 岩崎和隆 久冨和子 後藤浩一 小林義人 渋谷照夫 刀川 真 堀内 一  森川憲治 葭安(よしやす)雅美 杉野 隆 芳賀正憲

 

1.講演 人間と世界(2.中世からルネサンスへ) 

 

     青山学院女子短期大学教授・総合文化研究所長

       哲学美学比較研究国際センター副所長

     橋本 典子

 

 序論として「生圏情報システム」の位置づけを考える。そのために「意識」の問題を取り上げたい。

 情報は、プリントアウトして手にとっても見えるようになっている。しかし、前回画面の「影」のところで述べたが、中身そのものは背後にあるものである。

そうだとすると、何を考えたらよいのか。中世は、意識を大きな問題として

取り扱っているので、情報と意識について考えていきたい。

 生圏情報システムは、どういう形になるのか。システムも図式化され、表面的には目に見えるようになっているが、有機体のようで動いていくものである。

人間が介在することによって、さまざまな形で実際に働く。人間の関わりが

重要であり、意識の問題がポイントとなる。そこで中世との関わりが出てくる。

 生圏情報システムは、現代の学問としてどこに位置づけられるかを考えなければならない。アリストテレスの学問体系は、20世紀まで生き続けてきた。20世紀になって、学際の新しい学問が出てきた。

 現代は、何を科目とするかが大問題である。学生が集まりそうなものを科目とすることがある。例えば「平和学」をする。しかし「平和学」を現代のこととしてしか論じない。ほんとうは、歴史的な積み重ねの上に論じなければならない。

 ルネサンスの時代に、ピコ・デラ・ミランドラが平和について論じている。彼は、教皇庁に毒殺された。早く生まれすぎて、危険思想とされた。彼の主張は、現在私たちが一所懸命やっていることに通じる。そこで、現在との関連で意識を考えてみたい。

 1889年ベルグソンが、「意識に直接与えられたもの(与件)についての試論」を書いている。意識をまともに取り扱っている。20世紀になって、意識は大事な存在として考えられるようになった。哲学では、常に意識の問題を考えている。

 他の分野では、いないか。ハイゼンベルクとニールス・ボーアの対話がある。コペンハーゲンからヨットに乗って対話した。「全体と部分」という書物に収められている。ハイゼンベルクが時間性の問題を論じて、その後に次の文章がある。

「それ以外に量子力学の拡張の必要性が、時折問題にされるのは、人間の意識の存在についてです。物理や化学に“意識”の概念が現れないということについては疑いの余地はないだろうし、何かそれらしきものを量子力学からどうやって作ったらよいかも実際よくわからない。しかし生きた有機体までを含めた自然科学の中に意識は場所を持つべきだ。なぜならそれは実在に属しているからね。」

 だから、物理学とか化学とかで意識の問題を扱わざるを得ない時代にはいってきた。

「・・・意識と結びついている実在の部分を、物理や化学で記述される他の部分とどのようにして適合できるのか」

 これを解決して意識の問題を取り扱うのが、生物学の時代である。その次の時代が分子生物学。その延長線上に、DNAの解析がある。DNAに情報が含まれ、将来の病気が診断できたりする。そこで、情報の学問と関わってくる。意識の場についてこれから考えなければならないが、そこに自然科学と人文科学を結ぶものがある。分子生物学がそれを担うのではない。いろんな分野で学際を構築するのが、大きな課題である。意識の解明がこれからの課題である。

 生圏情報システムを考えるとき、情報は意識と密接な関係がある。生物学、分子生物学の次が生圏情報システムになるのか、どういう形で新しい学問を切り開いていくのか、われわれ共通の課題である。

 学問体系は、そもそもどう考えられてきたのか? アリストテレスの学問体系

を研究する人は少なくなってきたが、物理のある先生がアリストテレスの自然学から講義を始めていたので、無意味とは考えられない。

次ページ図参照

 アリストテレスは、人間の活動を3つに分けた。観ること、すること、作ることである。

観るというのは、観照、心の眼で観ること、精神的に観ること。ギリシャ語でtheoriaというが、後にtheoryになった。理論を構築することである。

することは実践、praxispracticeである。作ることは制作、poi?sis。ここから、作られたものとしてpoem詩がでてきた。

アリストテレスから、ギリシャでは3つに分けることが一般的になった。オリンピックでも、観る、競技する、彫刻を作ることが行なわれた。

アリストテレスの学問体系

 

        予備学(論理)     論理学(logica

観照(想)    自然学(physica)    植物学、動物学、プシュケーの学

theoria)                   (psychologia)→心理学

                    天文学(astoronomia

                    数学(arthymatica

        形而上学        人間の存在(存在論)ontologia

       (metaphysica          神論theologia)→後に神学

実践      倫理学(ethica

praxis   家政術(oikonomia  後にeconomia(経済学)

        ポリスの学(politica)  政治学(politics

制作(poi?sis) 詩学(poetica

 

 

 西洋では、3つの要素の組み合わせが非常に重要とされている。キリスト教でも、音楽でもそうである。学生にも、西洋の論文を読んでいて、2つ要素があれば必ず3つ目があると考えるように言っている。

 アリストテレスは、3つの行為によって学問を分けていった。

 あらゆるものの前提条件、予備学として、まず論理的なものを考える。論理学が、あらゆる学問の基礎である。論理学は非常に重要であるが、残念なことに、日本の大学で論理学をやっているところはなくなってきた。言葉の中に、本来論理がなくてはならないのに、現在は意識されていない。

  次のtheoriaとして、自然学。ギリシャは、まわりに自然があった。自然を見ることは非常に重要であり、視覚的な要素も含まれている。

 自然学には、3つのレベルがある。まず、植物学、動物学。アリストテレスは、アレキサンダー大王の支持により植物園も動物園も持っていた。動物園には象もいた。動物学の中に、動物としての人間も含まれていた。次に、プシュケーの学。プシュケーは、魂である。これが現在のサイコロジー、心理学になった。しかしプシュケーの学というときは、植物のプシュケー、動物のプシュケー、人間のプシュケーというように、あらゆるものにプシュケーを考える。

現代でも、うなぎの心理を研究していた学者がいた。猿の心理の研究は一般的であるし、地震に対するなまずの反応は、プシュケーの学といってよいだろう。

 人間のまわりにあるもので、少し抽象的になるのが天文学。そこから出てくるのが数学である。抽象化がさらに進められている。以上が自然学として考えられていた。

 自然学に対して、メタフィジカが考えられた。メタというのは、〜の後で、〜を超えて、という意味である。自然学を勉強した後で学ぶもの、自然学をさらに超えて学ぶものである。これを日本では、形而上学と訳した。形のあるものを超えたことが強調されている。

 メタフィジカは2つに分かれる。1つは、人間の存在について考える。動物としての人間は自然学で取り扱うが、ここでは人間の存在論、オントロジーを扱う。あと1つは、神について考える。これが神論で、後に神学になる。中世では特にこれら2つの分野に取り組んだ。中世は、形而上学の世界を対象にしたのである。

 次が実践であるが、実践ではギリシャで一番大事なのがポリスだったので、ポリスの学が最高の学とされた。ところがその前に、身近な実践の問題としてエチカがある。エチカは、個人のレベルの問題である。それに対して、家の問題を考える家政術がある。近年大学の家政学科が生活科学科などと、ギリシャ以来の名称を変更しているのは残念である。この家政術オイコノミアが、エコノミアになり、経済学になったが、それはかなり後になってのことである。家政というと、衣食住をイメージする人が多いが、わが国が影響を受けた米国の家政学では、環境や法的な問題を重要なテーマにしている。ポリスの学は政治学である。国家学と訳す人もいるが、国家の概念は18世紀以降なので、やはりポリスの学または政治学としたい。

 制作について、アリストテレスは「詩学」しか残していない。これはハウツーものである。どうしたら優れた悲劇が書けるかが述べられている。残念ながら前半しか残っていない。後半は喜劇論と推測されているが、写本もない。

映画にもなったウンベルト・エーコの「薔薇の名前」は、「詩学」後半の焼失をテーマにしている。エーコは、パレーソンの高弟の美学・記号学者である。この作品を読むと、「詩学」後半の焼失が西洋の常識になっていることが分かる。      また、ギリシャ悲劇は偉大であり、今でも大きな劇場が残っている。ギリシャ悲劇は、女性は観ることができなかった可能性が高いが、その地位が本当に低かったのか、女性学は米国由来の運動という傾向が強いが、ギリシャ時代からその位置づけを調べてみる必要がある。

 アリストテレスの学問体系で、数学のところまでを私たちは自然科学と呼んでいる。形而上学から倫理学までが人文科学である。家政術、ポリスの学が社会科学。大学で、自然、人文、社会科学、それぞれから科目を選ぶと全体を学ぶことになる。前提として、論理学は必須である。

 制作は別枠と考えられるが、ギリシャ悲劇論を読むと、人間がいかに生きるべきか、ポリスの中でどのような役割を果たすべきか述べられているので、複合的なものだったかもしれない。

 これらを20世紀になって全部こわしてしまった。一般教育の中でも、自然科学、人文科学、社会科学それぞれから選ぶのではなく、やりたいものをやりなさい、ということになっている。これでよいのだろうか。全体が分かった上で選択するのならよいが、そうなっていない。アリストテレスは古いからもういいというのではなく、アリストテレスの学問体系が進化した形で今日があるのだと考えなくてはならない。その中で情報学がどのように位置づけられるのかが問題である。そこから、情報学を学ぶ前に基本的に学ばなければならないものが出てくるだろう。それをアリストテレスの学問体系の中で考えてみたらどうだろうか。

 ギリシャでは、学問のことをエピステーメと言っていた。このあとに形容詞をつけ、自然の学(エピステーメ フィジケ)などと言っていた。その後エピステーメを省略するようになり、さらに形容詞がラテン語の中で女性名詞化し、自然学をphysicaフィジカと呼ぶようになった。他の学問も同様である。

 それに対しメタフィジカがあるが、アリストテレスは形而上学という名前はつけていない。アレキサンダー大王が没したとき、保護を受けていたアリストテレスは、アテネから追放された。このときアリストテレスは、講義録をすべて縛って残しておいた。後に持ち出されて解明されることになったが、自然学を学ばなければ解明できないものである、自然学を超えた内容が書かれている

ということで、ロードス島のアンドロニコスという人が、ta meta ta physica

と名づけた。taは、定冠詞のtheである。これが簡略化され、metaphysica

メタフィジカと呼ばれるようになった。これは中世のことである。

 したがって、アリストテレスはメタフィジカという学問は、意識はしていたかもしれないが、作っていない。しかし、哲学は全学問体系を包含している。自然学に対して自然哲学がある。形而上学は中心である。論理学はもちろんである。倫理学もはいっている。 政治哲学、経済に関する哲学もある。20世紀になって新しい学問が出てきたが、全体の中でどういう位置づけになるのか考えなければならない。情報学に関係されている方は、以上のような体系を、どのように認識されているのだろうか。

 

 次に中世であるが、誰を取り上げるか考えたが、やはりアウグスティヌスとトーマス・アクィナスがよいと思った。中世とは何だったのか、言葉を用いて神について考えたことが重要である。例えば「家」というときに何を意味するか。中世でキリスト教絵画を考えると、家は教会の組織を表わしていることがある。建物を示すことももちろんあり、教会を表わすこともある。家族を考えていることもあり、平安の場、天国を示すこともある。このような言葉の連関は、情報にとって非常に重要ではないだろうか。これらを念頭において、アウグスティヌスとトーマス・アクィナスのことを考えていきたい。

 アウグスティヌスは、ラテン教父である。教父とは、教会の理論を立て、教会を守った人である。ラテンというのは、ラテン語で書いたということである

(ギリシャ教父やコプト教父もいた)。

 ギリシャ哲学の中心は、自然であった。アウグスティヌスは明らかに自然を排除し、魂と神を求め、神を永遠、人間を時間的存在とし、永遠と時間の関係を問題にした。換言すると、無限なものと有限なものとの関わりを考えた。

 アウグスティヌスの著作はすべては翻訳されていないが、「告白」が有名である。アウグスティヌスが繰り返し述べている言葉として「人間とは、無限を自己の中に受け取るところの有限的な器である」(Homo capax infiniti finitum)がある。

 逸話であると同時に実話でもあると言われていることがある。アウグスティヌスがあるとき海岸を歩いていると、子供が穴を掘り、そこに海水を運んで入れていた。アウグスティヌスが「なぜそのような無駄なことをするのか、あんなに大きな海の水が、小さな穴にはいるわけがないではないか」と言ったところ、突然その子供が天使(キリストという説もある)になり、「あなたが考えていることもそういうことなのですよ。無限の存在である神のことを有限の存在である人間が考えても、ほんの少ししか分かるはずがないのですよ」と言ったということである。このエピソードは、絵画にも描かれている。

 神が存在しなくなり、人間の視点でしか無限を考えなくなった今日、神の復活までは想定しないとしても、生きる上で人間を超えた存在をどのように取り扱うのか考えさせられる。

 アウグスティヌスはまた、時間について有名な言葉を述べている。これは、フッサールの「内的時間意識の現象学」の冒頭にも引用されている。「時間とは何かと問われるまでは、自分に時間は明白なのであるが、さて、それは何かと問うてみると、自分は答えることができない。」

 アウグスティヌスは、「過去と未来はない、現在のみある」と言っている。

したがって、現在を中心に考える。過去は、過去についての現在すなわち記憶である。現在は、現在についての現在すなわち直観あるいは直視である。未来は、未来についての現在すなわち期待である。だから時間とは、記憶、直観、期待などのような意識的存在と言える。

 しかし意識だけだと実在が問題になるので、アウグスティヌスは客観的時間についても考えている。聖歌が聞こえてきたとき、デウスがデウースというように、ウーがデの2倍の長さで歌われている。このとき、デ、ウーは細切れになっているのではなく、ウーが歌われるとき、実はデが残っている。これをアウグスティヌスは、アフェクチオ(情動)が押し寄せてくると言っている。記憶の中にアフェクチオという力が押し寄せてくるので、デウスという言葉になるのである。

 アウグスティヌスの新しい視点として、時間とともに歴史について考えたことが重要である。ほかに創造論も重要であるが、情報および意識に関連することとして、今回はアウグスティヌスについて以上のようにまとめた。

 次に中世で考えなければならないのが、トーマス・アクィナスである。彼は「神学大全」を書いたが、まだ翻訳が終わっていない。京都の高田三郎先生が始められ、15年くらい経っているが、まだ進行中である。現在翻訳が45冊くらいになっている。

 トーマス・アクィナスは中世最高の学者であり、ルネサンスで非常に受け入れられていく。「聖なる教え」すなわち神学がいかなる学問であるか、ということがトーマス・アクィナスにとって大きい問題だった。

彼にこういう言葉がある。「学問には、自明的な原理から出発するもの、たとえば数学や幾何学のような学問と、自らよりも上位の知恵からその原理を借りてくる学問とがある。」

 哲学は前者にはいってくるが、後者、自らよりも上位の知恵からその原理を借りてくる学問の方を彼はやりたかった。後者の例として、光学がある。光学は、前者の幾何学の原理にもとづいているので後者になったのだろう(現在なら光は物質としてとらえられる)。神学は、啓示にもとづくものである。聖書の学は、啓示にもとづく。啓示の光によって、信仰の問題が出てくる。例えば、神の受肉、托身、三位一体。

 三位一体は神学のみでなく、哲学でも大問題である。アウグスティヌスも書いているが、まだ謎でよく分からないところがある。西欧では、神学上の重要なテーマとして三位一体を取り扱うのが一般であるのに、近頃日本の政治家が

安易に三位一体という言葉を使うのは、国際的に非常識である。学問の伝統的なことを無視して軽々しく言葉を使ってはいけない。

 哲学は前者であり、自明な原理から出発している。自然的な光から哲学が始まる。自然的理性の自立的な仕事である。ここから理性が出てくる。

 ここで2つの光、啓示の光と自然の光が出てきた。啓示の光が上であり、哲学は神学のはした女とされた。自然のほうは、下のほうから積み上げて学問ができてくる。それに対して、パッともたらされるのが啓示の光である。のちに

デカルトになると、理性でずっとやっていく。現在は理性の世界である。

 トーマス・アクィナスは、アリストテレスの偉大な解釈者である。アリストテレスの理論を自分の中にそのまま受け入れている。エコエティカとつながりがあるが、トーマス・アクィナスは枢要徳、人間には大事な徳があるということを述べている。それが、正義、思慮(賢明に考えること)、剛毅(強いということ)、節制である。これらは、現在でも考えなければならない課題である。

 思慮は、アリストテレスの賢慮に相当し、ちゃんと知識を得て、きちんと考えるということで、きわめて重要である。剛毅は、勇気をもってことに臨むということで、自分の弱さによってという最近の証人喚問とは対極のあり方である。節制は過ぎないことで、金銭欲など節度が必要である。

 中世全体であるが、トーマス・アクィナスも、つねに超越ということを考えていた。メタフィジカも超越の問題を考えていたが、トーマス・アクィナスはそれとはちがっている。人間に対して超越的な神ということは理解しやすい。

トーマス・アクィナスはそれとはちがっていて、超越的名称ということで水平的超越ということを唱えた。垂直的超越と水平的超越を分けて考えた。

 初期段階で、もの、或るもの、1、真、善の5つを考えた。「もの」は、水平的に多くのものに言える。1も、多くのものが1として存在している。「或るもの」も、超越的に或るものである。「真」も「善」も、超越的に言える。後の書物で、真善美を1つのものとして考えているが、「美」も超越的である。真善美は1つのこととして実現しており、観方によって真だったり善だったり美だったりする。つまり、存在するものがそれ自身1つの或るものとして、真であり善であり美であるというように考える。そこに神の秩序、神の輝きを見ている。

 それでは私たちにとって何が一番大事かというと、トーマス・アクィナスは

幸福が大事だと言っている。アリストテレスと同じである。本当の幸福とは何かというと、「神を観想すること」と考えた。精神的な幸福である。

また、神に対する徳、対神徳を、信仰、希望、愛と考えた。信、望、愛である。絵画で表現すると、信仰は白、希望は緑、愛は赤になる。クリスマスでは、雪、モミの木、リボンやろうそくで表される。この3色が、キリスト教では非常に大事である。それが最近は銀になったりブルーになったりしている。中世からルネサンスにかけて、例えばボッティチェリなどでは、3人の天使が3つの衣を着ている。それが白と緑と赤で、信、望、愛を象徴している。今道先生はグリーンが好きで、学生運動が盛んなときもグリーンの背広でキャンパスを歩き、目立ってつかまることも多く、助手をしていて困った。希望を捨てないということでグリーンにしていたのである。

中世やルネサンスの絵画を観るとき、このようなことを知らないととんでもないことになる。中世の絵画を専門にしない人が中世の絵画の解釈をすると問題が生じる。すべてに象徴的意味があり、メタファとして使われている。先ほども言ったが、家が建物、家族、教会、教会の組織、天国を示したりしている。

それらがすべて理論的に説明できる。今後、絵画もクリスマスの装飾もそういう観点で見てほしい。

 

 ルネサンスでは、ペトラルカとダンテの「神曲」を取り上げたい。ルネサンスでは人間が中心に出てくるが、実は中世をそのまま背負っている。中世の宗教との関わりが非常に大きい。ルネサンスというと、信仰や神がそれほど大事にされていなかったと思われているが、そうではない。そのことを述べて、次の議論につなげたい。

 

2.ディスカッション(すべては記録できていません。()内は出席者からの

質問、コメント)

 自然科学の場合、論文評価の基準が明確かもしれないが、哲学の場合、そのような基準を定めにくい。したがって、レフェリーも容易ではない。

 図書館などで文献探索をするとき、膨大な数が出てくるので、著者を評価して選別することになる。学生はそれができないので、玉石混交になる。情報学の課題ではないか。(サイテーションデータベースはできているが)日本人の場合、不利である。(インターネットの検索で出てくる順番にはアクセスの実績が反映される。情報システム学会のWEBサイトもトップになった。)エコエティカのホームページも作る必要がある。

(情報システム学の評価はどうするか)

(自然科学も哲学も、究極の真理に向かって近づいているだけだろう。情報システム学については、トーマス・アクィナスの自明的な原理とその原理を借りてくるプロセスと両方にまたがらないと人々にシェアされるものにならないのではないか)

(公理的なものが求まることが課題である)

(モデリングの分野で、MVCという有名な概念がある。モデル、ヴュー、コントローラ、まさに三位一体である。モデルというのは、ここでいう真理である。

誰が見てもそうだと考えられるものである。それにもとづいて、自分の目的で業務を組み立てる。それがヴューである。その間をとりもつプログラムがコントローラである。アリストテレスの観照、実践、制作の3元にも対応しているようにも思える)

(制作は、芸術的なことを言っているのでは)

 カントの3つの批判も、3元に関連している。

(技術的なことが体得されないと情報システム学は進められないが、体系のどこに位置づけられるのだろうか)

 テクネーという概念である。テクネーはギリシャでは知識と実践的なものと両方を含んでいる。形而上学の書物で取り上げられている。

(エンジニアリングとテクノロジーが分けて考えられている。エンジニアリングは作る方、だから制作(poi?sis)も必要であるが、制作は奴隷がして市民が

しないので、考慮されていないのでは)

 ギリシャにarkhitekton(棟梁)という言葉があり、たしかに石を運ぶにしても、運ぶのは奴隷であるが、全体を見渡す人が必要である。それがテクノロジーの発想であろう。全体を見渡す人は、知識と制作と合わせたものをもたなければならない。(注:arkhiは、チーフという意味)

(新しいものを作り出すという意味はあるのだろうか)

 アリストテレスの場合には、神より下の造物主がイデアを見ることができ、それにもとづいてものを作る、それがアーキテクトである。これが制作者になったとみなされる。

 人間の生物的な意味での行動から欲望は、動物学、プシュケーの学、形而上学で取り扱われている。

(数学は自然学にはいるのか)

 天文学の背後に数的な自然があると考え、抽象的な数学をもってきている。

(このような学問体系に、ヨーロッパの子供たちはどのようにしてふれるのだろうか)

 中学から高校にかけて哲学を学んでいる。しかし今、米国では大問題になっている。米国では、人類学をやっている人も哲学をやっているという。哲学自体をあまりやっていない。欧米でよいのは、ラテン語、ギリシャ語が言葉の源になっている。そのため言葉を学ぶことにより、哲学的感覚が自然に備わる。

 日本の英語の辞書で問題なのは、意味の説明が使用頻度順になっていることである。欧米では歴史的順序で書かれている。辞書が大きいほど、例文も多い。

しかし、最近日本の学生が辞書の先頭の意味だけ取り出して訳そうとするのは問題。哲学上の意味は、たいてい辞書の説明の最後のほうにある。意味の歴史的変遷がイメージを豊かにし想像力を養うのに、その機会が失われている。

(オントロジーを辞書で引くと、存在論としか出ていない。きょう初めて人間の存在論ということを聴いた)

 人間があるということから存在の問題になり、そこから神の存在、神の問題もはいってくる。

(情報システム関係では、オントロジーは概念体系という意味で使われているが)哲学では、現象論と存在論は対極にある。もちろん、「ある」から現象として見えるということはある。哲学でオントロジーは、人間がどういう形であるかということを探求している。人間があるということはどういうことか、世界とどのように関わっているか、人間同士がどうかかわっているか、人間と超越者はどう関わっているか、など。

(デカルトの「われ思う。ゆえに我あり」との関係は)本質的に同じ問題である。ギリシャに始まり、20世紀になっても議論している。現象学はフッサールが始めたが、ハイデガーは存在論をやっていた。

(情報システム分野では、語彙体系をオントロジーとし、体系が多数あるので複数形で表記することもある)

(インフォメーションと同じで、本来単数形しかないはずである)

 言語学が古い形のままでしか学生に教えられていない。言葉の使い方にも問題がありそうだ。

(情報システム分野では、20世紀以降の一般言語学が重要と考えられる)

(3月に開催する学会での議論は、依然として1920年代発表されたオグデン=リチャーズの意味の三角形モデルに準拠している)(注:実物、思考(意味)、

記号を三角形の頂点に置く言葉の意味形成モデル)

 シニフィエ(記号内容)、シニフィアン(記号表現)とも関連するが、そのようなモデルだけでは言語の豊かさを解明できないのではないかと考えられるようになった。解釈学がそこから出てきた。

(たしかに意味の三角形だけでは、コンテキストやその時間的変化はとらえられない。とりあえずオントロジーでは概念とその間の関係を明らかにしていきたい)

 デザイン論の中でそういうものがある。1つのものがどういう意味構造になっているか列挙していく。2項関係はすでに乗り越えられているように思える。

デザイン論からどのように言葉に戻ってくるか、課題が残っている。ソシュール、オグデン=リチャーズ、オースティンとたどっているが、その先が必要だ。

(デザイン論は、あらゆる分野できちんと進めるべきだ)

(ソシュールから構造主義に発展している。データベースを作ったり、システム設計をする立場からは、構造主義が基本的な考え方になるのでは。分割構造を共通認識としてどのようにもつかがポイントではないか)

 スイス人のジャン・クロード・ピゲが、メタランガージュということを言っている。ピゲは、言語哲学者である(注:「言語表現の哲学」の著書がある)が、「アンセルメとの対話」も有名である。言語哲学を基礎にしながら、それを超えている。ある種の構造主義と言える。日常的な会話から文学的な言語、信号のような言語、メタ言語。

 構造主義のよかったことは、構造があると思わなかったことにも構造が発見できたことである。今まで一様に見えたことに対して、ちがう視点で見ることが可能になった。構造主義は、道具として非常に重要だと思う。現象学も同じで、道具として大事だと思う。

 中世で考えられた「意識」は、現象学とは異なる。認識を超え、実在と結びつけることができる。ハイゼンベルクやニールス・ボーアがどのように考えていたのか興味深い。解明するのは、やはり分子生物学だけではないだろう。

 超伝導に関する論文の偽造があったが、経済効率に代わる価値を人類は見出す必要がある。

(世の中の基盤になるものの価値が広く認められるようになってほしい)

「幸福」とは何か、ということをあらためて考える必要がある。10年くらい探求しているが、容易ではない。

(環境会計も数字で表わすと、結局効率の問題になる)

 価値意識の問題を、一般的な言葉にしていかなければならない。

(きれいな言葉で悪事が行なわれたことが多数あった(注:八紘一宇?)。金銭には人々の価値観が反映されており、金銭で表わされることはきわめて重要だ)

 アウグスティヌス、トーマス・アクィナスは、それを超えたところに価値があると言っている。問題は、神概念がなくなったところにある。お天道様が見ているという怖れが以前はあった。今はそれが失われ、歯止めがなくなっている。

(アリストテレスの場合、身を処すための価値基準は何に置いていたのか) 

 正義、賢慮、勇気などの徳であるが、アリストテレスの場合、中庸を重んじていた。勇気についていえば、何かことをなすとき恐れてはいけないが、何ごとも自分の思いどおりになると考えて突っ走ってもいけない。これは、神に対する概念とは異なる。

株の誤入力に伴なったりして、個人に過度の利益がもたらされる。このようなことが、他にもあると思う。社会の中でチェック機構が働いていないのではないか。

(コンピュータシステムが機械的な判断しかできないにもかかわらず、著しく複雑化してきて今回のような漏れが生じる。人間もそれを見逃してしまう)

 コンピュータ関係の契約書など細かく書かれているが、一般にあまり読まれない。機械が進歩して、人間もそれに伴ないより賢明にならなければならないのに、賢明でない方向にいっている。

(利益を上げた方は、こういう条件になったらこうすると決めて待ち構えているので、誤入力があればすかさず反応する)

(わずか10分の間に、外資系企業の方が圧倒的に大きな利益を上げている)

(日本の場合、問題が起きたとき、性悪説の前提に立ってなかったという言い訳が多い。監督官庁さえそう言っている。人間は何をするか分からないという前提に立つべきだろう)

 最後に出席者が自己紹介をして終了。

所感(森川憲治)

会の冒頭で、橋本先生より、たとえば今日的な課題である「平和学」を取り扱うのであれば、なぜ同時代性とともに歴史的なつながりを考えないのか?という問いかけをされましたが、今回の研究会において、「生圏情報システム」学を考えるにあたって、非常に示唆的なことと受けとめました。

過去2回の研究会において、ソクラテス、プラトン、アリストテレスからさかのぼって各時代の哲学上の課題を振り返っていますが、その過程において、中世にいたっても、アリストテレスが提示した課題及びそのアプローチ方法との各時代の哲学者の格闘等を知るにつれ、改めて冒頭の問いの正しさを再認識しました。

「意識」の問題を扱うにあたってベルクソンの思索の紹介がありましたが、

それを伺いながら、以前、小林秀雄がベルクソンのことを語る中で、ベルクソンが肉体と精神が並行するかについて考え抜いたことを引いてこの思索がベルクソンにとっての現代的課題であり、諸君も、頭に汗をかくつもりでもっと真剣に考え抜きなさい、との言葉を想起しました。

当「生圏情報システム」研究会の活動を通して、自身の研鑽を積ませていただければと思っています。

コメント1(岩崎和隆)

研究会のあと、映画「薔薇の名前」のDVDを探しましたが、見つからず、本が入手できたので、読みました。解説に、モーロ元首相誘拐、殺害事件(ちなみに、事件当時、私は小学生でした。)をきっかけに執筆したとあり、考えさせられました。

コメント2(岩崎和隆)

 監督官庁のことについて、情報システムを離れ、毎日、道路法、河川法などの許認可事務を行っている、現職の監督官庁の立場でコメントします。いまの監督官庁の仕事は性善説に立ちすぎていますが、性悪説に立って許認可を行う場合、申請者の負担、監督官庁の審査の負担のいずれか、もしくは両方が増えるため、そのコストを誰が負担するか、という問題が生じます。申請者の負担増は消費者に転嫁され、監督官庁の負担増は税でまかなわれます。そのあたりは、建築の構造計算書偽造問題(ちなみに、私の隣の課では、ある市の建築確認を行っているため、その問題で大忙しです。)の再発防止策の議論を見ると、よく分かります。

 建築のような、個人にとって大きなリスクのある買い物については、消費者もしくは税負担が多少増加しても、審査を厳しくすべきであると考えますが、違法行為、脱法行為をした者に、刑事、民事等における大きなペナルティという抑制手段を併用しないと、コストが増大しすぎてしまいます。

 また、全く報道されていませんが、同僚と比べても違法行為取り締まりの案件を多く抱えていていつも感じるのが、違法行為取り締まり費用が税金でまかなわれているため、財政難のため取り締まりが十分にできないということです。私が違法行為について強い対応をしようとして、組織内で反対される理由は、私の職場では、事なかれ主義ではありません。上司も正義感はあるのですが、違法行為取り締まりに要する膨大な事務量を考えると、財政難により極度に人員が削減されているために、「監督処分は見送ろう。」「始末書をもらって終わりにしよう。」となってしまいます。

「東横イン」の違法行為について、初期の行政の対応が甘かったのですが、その原因は、行政法学上の比例原則もありますが、財政難のために十分な取締りができないことも、一因であると推測します。行政法学上の比例原則にしても、すべての違反者に強い姿勢で対応できれば、甘い対応の原因にはなりません。

財政難が原因なので、発想を変えて、違法行為取り締まり費用は違法行為を行った者から徴収することにすれば、財政上の制約がなくなる、という提案をしたのですが、現在の行政法の考え方から大きくはずれているため、論外である、として却下されました。

 

以上