情報システム学会 メールマガジン 2009.7.25 No.04-04 [11]

連載 情報システムの本質に迫る
第26回 社会(経済)システムの分析(1)

芳賀 正憲

 東欧ドナウ川の両岸に広がるハンガリー共和国は、面積が日本の4分の1、人口が13分の1の比較的小さな国ですが、これまでバルトーク、コダーイ、ルカーチ、ポランニー、ノイマンなど、多数の傑出した芸術家・学者を輩出し、人類文化の発展に寄与してきました。人口当たりのノーベル賞受賞者の数は、日本の10倍を超えています。
 1928年ブダペストに生まれたコルナイ・ヤーノシュも、主として社会主義経済の内部からの卓越した分析により、東西の経済学者や政策担当者に多大な影響を与えたハンガリーの学者です。数年前には国際経済学連合の会長を務め、ノーベル経済学賞にも繰り返しノミネートされています。
 2005年、コルナイ(ハンガリーでは姓名の順で表記します)は回顧録を著しました(邦訳:盛田常夫「コルナイ・ヤーノシュ自伝 思索する力を得て」日本評論社)。この本は、ナチスの侵攻、ソ連による解放、1956年の革命、弾圧、改革、共産主義体制の崩壊、市場経済への移行という激動する政治情勢の中で、若くして共産党のエリートとなった彼が、いかに自らの立ち位置を確保しながら、現実を分析し、マルクス主義とともに近代経済学を学び、思索し、独自の学説を打ち立てていったかを記述した稀有の書で、わが国でも多くの新聞や雑誌が書評で絶賛、さらにその年発行された優れた経済書に選定しました。
 本稿では、同書や1990年盛田常夫氏がインタビューした記録をもとに、コルナイが1つの社会(経済)システムをどのようにidentifyしていったか、たどってみることにします。情報システム研究者が「しっかりと学ぶ」べき参照領域の1つ、経済学へのアプローチの仕方として、現場に立脚したコルナイの分析とモデリングの進め方が参考になると考えられるからです。

 ユダヤ人だったコルナイは、父をアウシュヴィッツに、長兄を東部戦線の労働キャンプに駆り出されて亡くし、自身も労働キャンプに入れられますが、脱出に成功、修道院にかくまわれてソ連軍による解放を迎えます。17歳のときでした。
労働キャンプで働いていたとき労働者との連帯意識が醸成されたこと、ファシズムに対する対抗軸としての共産勢力の実績、マルクス主義の論理性と一貫性から、コルナイは解放された年、共産主義青年運動にはいり、やがて確信的なマルクス主義者として活動に没頭します。
 2年後の1947年、党の中央機関紙に招かれ、勤めて2年目には経済記事の責任者になりますが、大学で何かを学んだということはなく、経済学の知識は実地の観察と「資本論」の独学によるものでした。

 1953年スターリンが亡くなり、ハンガリーの小スターリンと呼ばれていたラーコシが権力を握っていたとき拘禁されていた人たちが、次々と出獄してきます。その人たちから、政府機関により無実の活動家に対して広範囲に拷問や拘禁が行なわれていたことを知り、理論的というよりまず倫理感から、共産主義に疑問を抱くようになります。
 1954年秋、中央機関紙編集局では総会を開いて党中央の指導を批判。数ヵ月後、総会で発言した7名が編集局から追放されました。コルナイもその一人で、経済研究所に異動になり、給与が半減します。これにより、党に対してさらに不信感をもちますが、コルナイ自身はかねてから研究の道にはいりたいと希望していたため、異動をきっかけにPhD(相当)の学位取得の取り組みを開始します。コルナイ27歳のときでした。

 研究テーマは、軽工業で中央計画化による経済管理が現実にどのように機能しているか調べることに決めました(論文出版時のタイトルは「経済管理の過度集権化」)。軽工業を選んだのは、生産と消費の関係に関心があり、また、重工業では軍事関連の生産があってデータの取得がむずかしいと考えたからです。研究開始時、党が主張している「計画庁が計画を立案し、現実の経済過程がこの計画指針を踏襲する」ようにはなっていないだろうという否定的仮説をもっていました。
 研究手法のポイントは、経済管理を担っている上級、中級、下級の管理者それぞれにインタビューすることでした。ときにはグループ討議も併用しました。インタビューでは、記者時代、特集のレポートを書いたときの取材経験が役立ちました。現場の管理者自身がテーマに関心をもっていて、積極的にインタビューに応じてくれました。インタビュー結果は、規則や指令の文言、数字的なデータや工業統計によって補足しました。
 当時は計量的手法の知識がなく、その分析手法は「ナイーブな実証主義」と呼ばれることもありましたが、何物にもとらわれず、ただ「わが国の生産を担っているメカニズムはどのように機能しているのか」理解したいという思いが奏功し、多くの重要な連関を認識することができました。

 この論文の新規性は、従来の経済関係の文献が、経済メカニズムがどのように機能しなければならないか、著者の考えを述べていたのに対して、現実にどのように機能しているか連関を分析して示したところにありました(論文の内容は今日でも妥当性が失われず、最初の出版から30〜35年後に、英国と母国で再版が発行されています)。

 論文では最初に、計画が年間・四半期を問わず、企業から真面目に受け取られていないこと、それは計画が企業に対するインセンティブに結びつけられていないためであるという、計画指令制度の基本的な問題点を指摘しています。
「生産価値」は最も重要な指令指標とされていましたが、生産価値は健全な手段によって増やすことができるだけでなく、トリックによってもそれが可能になる(例えば多くの材料を使用すれば価格を高くできる)ことが指標の意味を失わせていました。どのような指標であっても、歪曲された方法で対抗戦略を考えることが可能なのです。論文では他の多くの指標についても、一貫性がなく、望ましくない副次効果があることを明らかにしました。
 指令とインセンティブが一緒になって、生産活動に好ましくない傾向がもたらされます。この傾向は必然的なもので、警告によって多少の改善はできますが、なくすことは不可能です。論文では7項目挙げていますが、以下にそのうちの一部を示します。

 (1)法律や指令の文言を順守しながら、管理者に最大の報償や栄誉がもたらされるような生産―資材利用の実績が「引き出さ」れる。このとき、国民経済的関心は一般に考慮されない。
 (2)計画の超過達成によって報償と栄誉が得られる場合、計画に先立つ討議で、生産能力を実際より小さく見せ、予想される困難を大きく見せて、より軽い計画課題を取得する。
 (3)管理者の注意とエネルギーが短期的計画の達成に集中的に向けられ、技術開発、新製品の導入、労働組織の近代化など長期的課題はないがしろにされる。

 コルナイは当時、社会主義経済のもとで恒常的に見られる、物資の「不足」現象について、「不足が中央集権化傾向を強め、他方で中央集権化が不足を激化させる」という連関を認識していました。この問題は後年、本格的に深く追求していくことになります。

 企業には他の企業との水平的な関係と、上級機関との垂直的な関係があります。社会主義経済では水平的な関係による影響はほとんど無視でき、垂直的関係の支配で特徴づけられるというのが、1956年発表のこの論文でコルナイが示した見解ですが、メルマガの2009年3月号で述べた開モジュール構造と閉モジュール構造の比較と実質的に同等のことが明らかにされていて、その先見性に驚きます。

 コルナイは最終章で、論文全体を貫く基本的思考を次のように総括しました。「過度集権化、その相互に関連する系統的なメカニズムには、その内的論理、多くの内的傾向、<法則性>が存在する」。しかしそれは矛盾を内包し、実現不可能にもかかわらず、すべてを集権化し、指令によって制御しようとします。ここで「法則」という言葉は、当時の政治経済学者が規範的な意味で用いているのに対して、コルナイは実証科学的に使っています。
 この論文でコルナイは、過度集権化の根源を明らかにしようとしたのですが果たせませんでした。当時は、その根源が政治構造や所有関係に至るほど深いものであることが理解できていなかったからです。

 この論文では、表立ってマルクス理論の批判をしていません。しかし、思想の伝達において言葉は非常に重要な役割を担っているとして、コルナイはマルクス主義の言葉の使用を意識して避けています。マルクス主義の概念構成を投げ捨てることで、経済に関し内容のある命題を定立しようと考えたのです。

 論文執筆時、コルナイはすでにマルクス主義と決別していました。市場の調整機能を中心に西側経済学の優れた点を教えてくれた当時の中央統計局長(のちに保守派の追及を受け、謎の死を遂げる)や親友との対話の影響が大きかったのですが、コルナイ自身、マルクス主義理論の帰結と現実との対比から、社会科学として成立しないことを確信しました。
 このような思考形成の経緯と、PhD論文で公に書けなかった理論的背景を100ページの手稿にまとめ、友人たちに見せたのですが、その内容が秘密警察に渡っていたことが体制崩壊後明らかになりました。

 論文は研究所内で高い評価を受け、コルナイは助手から研究員に昇格し、給与が上がりボーナスまで与えられました。
 学位論文の審査は公開で行われますが、所外にも評判が高まっていたため200人以上が集まって1956年9月24日に開かれました。ハンガリー革命(10月23日)の1か月前のことです。熱気の中で、以前の職場であった党の中央機関紙を始め各紙が論文を高く評価しました。学位論文が日刊紙の記事になるのは異例のことです。

 10月23日、コルナイは新政府ができたときの経済政策プログラムの作成に参画していました。しかし首都の混乱が大きくなったため、27日以降は活動をやめます。
 11月4日、ソ連の戦車が現れて革命は鎮圧され、以後、多くの友人・知人が処刑あるいは投獄され、または亡命を余儀なくされます。

 学位論文の出版は1957年に行なわれました。党指導部が反対者の逮捕・監禁などに忙殺され、1冊の本の出版の監視まで手が回らなかったためです。しかし翌58年には批判が始まり、以前高く評価していた党の中央機関紙からも激しい攻撃が加えられました。コルナイは修正主義者、反マルクス主義者の烙印を押され、厳しい取り調べも受けて、この年、経済研究所から追放されます。
 一方、イギリスに届けられた論文の要約を読んだ、近代経済学の重鎮ヒックス教授の推薦で、論文の英語版が1958年オックスフォード大学から出版され、西側有力紙誌の激賞を受けます。翌年にはロンドン大学から講義とセミナーの要請がありましたが、もちろん出国は許可されません。コルナイが西側の国に行くには、政治的抑圧が緩和された1963年まで待たねばなりませんでした。

このような中で考え抜いた末、コルナイは次の5項目の人生戦略を決定します。

 (1)共産党と決別する。
 (2)亡命しない。
 (3)政治ではなく、学問研究を職業にする。共産主義体制に対する英雄的で非合法な闘いには加わらない。学問研究活動を通して、社会の革新に貢献したい。
 (4)マルクス主義と決別する。
 (5)現代的な経済学の基礎知識を我が物にする。勉学と研究を通して、西側経済学界の一員になりたい。

 31歳までになされた上のような決意を、以後コルナイは原則として守り続けます。
 1986年ハーバード大学の終身雇用権をもった教授に就任したときも、1年の半分は母国に帰る契約としました。社会主義社会の内部に、経済システムのクリティカルな分析者であるコルナイが存在し続けたことの意義は、はかり知れないものがあります。
 非合法になることを避けようとすると、十分な活動ができないのではないかという考え方があります。しかしコルナイは、100%を述べて書物が出版されないより、真実の80%を述べて出版されたほうが賢いと考えました。

 上記人生戦略の(5)にもとづき、コルナイは特に「過度集権化」論文執筆後の1957〜58年、西側のマクロ経済学、ミクロ経済学、成長理論などを勉強します。また、数学は学校時代から得意だったため、さらに進んだ勉強と数学者との共同研究を同時並行的に進めました。以後コルナイは、経済システムのモデル化を、数学を用いて行なっていくことになります。(以下次号)

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。